2018年11月11日日曜日

杉浦醫院四方山話―559『三神三朗・三神八四郎・三神吾朗』

 山梨県中巨摩郡大鎌田村は、現在甲府市大里町になっていますが、「大鎌田村」で思い浮かぶ人物は人によって様々です。

 

 この仕事に就いている私には、桂田富士郎岡山医専教授と一緒に「日本住血吸虫」を発見した三神三朗氏が欠かせません。この寄生虫病の虫体を発見した三神三朗氏は、本来であればもっともっと顕彰されてしかるべき業績を残しているにもかかわらず、あまり知られていないのが私には不思議でしたが、孫にあたる三神柏先生の案内で旧三神医院を見学して、全てが了解できたことを昨日のように思い出します。

その辺についての詳細は、当ブログの253 『三神三朗氏ー1』から257 『三神三朗氏ー5』をご参照ください。


 「野球小僧」の異名を持つ友人のO君には、大鎌田村と云えば「ジャップ・ミカド」説もある三神吾朗氏です。甲府中学、早稲田大学と野球を続け、日本にまだプロ野球が無かった時代に渡米し、日本人で初めての大リーグの選手となった三神吾朗氏は、1889年(明治22年)に大鎌田村で生まれ、 1958年(昭和33年)に69歳で亡くなった日本プロ野球の草分け的存在です。


 また、早稲田大学の卒業者やテニス経験者には、大鎌田村と云えば早稲田大学構内に「三神記念コート」を残している三神八四郎氏でしょう。渡米して観た硬式テニスを日本に導入したことでも著名な三神八四郎氏は、1887年(明治20年)に大鎌田村で生まれ、 1919年(大正8年)に32歳の若さで亡くなりました。


 先日来館されたM君は、同級生の間では「重箱の隅をつつく医者」と云われ、医学に限らず歴史から文学まで年代や地名の記述間違いをエクセルに打ち込むだけでなく、曖昧なことは徹底してハッキリさせるので大変な博学です。武田信玄研究家でも著名な後輩大学教授の著書に数十箇所もの誤記があることを本人に私信し「こういう凄い先輩がいることに驚き、感謝に堪えません」と礼状が届くなど指摘の正確さは見事です。

 

 そのM君から翌日「三神八四郎と三神吾朗は兄弟であることは知っているけど三神三朗も兄弟か?」と質問が届きました。三神三朗氏について書いた上記ブログの記憶で「三朗先生は石和から三神家に婿に入ったそうだから兄弟ではない」旨を返答すると「同じ大鎌田村で三男・三朗と四男・八四郎は14歳年が違うけど五男・吾朗と続く「ロウ」繋がりがひっかかる」と。

 

 そう云われて正確に「ロウ」を検証すると三・八四・吾とロウの字は兄弟でも違っていました。その辺を吾朗に詳しいO君に聞いてみると「いやぁ、八四郎と吾朗は兄弟であることは間違いないけどその三朗って人は初めて聞きました。吾朗氏は日本に帰って野球をやめてからは全くプロ野球界から離れ、ひっそり六大学野球を観戦していたそうだから、退き際の良さでも有名だったようだよ」と教えてくれました。「何か三朗先生と似てるねー。地方病の第一人者だったけど自分の研究実績や名前を残すことを拒んだように私は感じているから。そうなると重箱突きのM君のコダワリも正確に調べた方がいいね」となりました。


 三神八四郎氏について、今年の山日新聞でS記者が一面の署名記事を書いていましたから、S記者にも大鎌田村の三神一族についての掘り下げを依頼しました。

 

 矢張り、明治と云う激動の時代に山梨の大鎌田村から東京に出て学び、更に兄弟とも申し合わせたように渡米して野球とテニスと云う新しいスポーツ文化を日本に普及させた八四郎・吾朗兄弟と野口英世と同じ学舎で同期に学び、故郷にある奇病の原因究明に取り組み治療に専念した三朗氏の人生は進取の気性で重なり、晩年のストイックな生き方も共通しますから兄弟と思われても不思議ではありません。

また、兄弟や親族で無かったにせよ、こういう逸材を生んだ事実は、中巨摩郡大鎌田村の風土だったのか興味は尽きません。