2019年1月21日月曜日

杉浦醫院四方山話―568『1945年1月のレイテ島-1』

 今年平成31年・2019年で「平成」も終わりますから、昭和20年・1945年8月15日は一層「昔」の事になりそうですが、1945年8月15日の敗戦の日は突然訪れた訳ではありませんから、地方病にも関係する1945年1月のフィリッピン・レイテ島の惨事と史実を大岡昇平の代表作「レイテ戦記」等を元に振り返ってみるのも必要ではないでしょうか。

 

  後に日本に進駐したGHQの最高総司令官マッカーサーがレイテ島に再上陸したのは、前年の1944年10月20日でした。さすがにパイプこそくわえていませんが、再上陸の先頭に立つ姿からは、「ウイ・シャル・リターン(絶対に帰って来る)」の決意が滲み圧倒されます。

この有名な写真もアメリカ軍が撮影記録して公開しているものですから、今となっては「余裕の上陸」を物語っているようです。

レイテ島に上陸するマッカーサー

 

 迎え撃つ日本軍は、1944年12月28日に島の北西部にあるカンギポット山に司令部を移し、1945年の1月1日には、司令部周辺にいた日本兵は、米の飯を炊いて正月を祝ったそうでが、実態は大きく違っていたことを大岡氏は戦記文学三部作で詳細に書き残しています。

  『レイテ戦記』によれば、レイテ島に派遣された日本兵は8万4006人でしたが、生還できたのは、わずか2500名で8万人以上が戦死しています。

一橋大学の藤原彰教授の著書≪餓死した英霊たち≫(ちくま学芸文庫)では「アジア太平洋戦争において死没した日本兵の大半は、いわゆる「名誉の戦死」ではなく、 餓死や栄養失調に起因する病死であった―。戦死者よりも戦病死者のほうが多いこと、しかもそれが戦場全体にわたって発生していたことが日本軍の特質だ」と、戦死者の多くが餓死、病死が実態であったことを指摘しています。

 

 ですから、1945年1月1日の時点で、司令部から遠い場所にいた日本の兵士は飢えに苦しみ、『蛇、とかげ、蛙、お玉杓子、ミミズなど兵士はあらゆるものを食べた』(レイテ戦記)そうです。

 

   このように同じ島内の兵士でも食べ物にも事欠くようになると信じられない規律違反も次々起ったそうで、1月5日には第102師団長の福栄真平中将ら幹部が、命令を無視してカンギボット山からセブ島に脱出したそうですし、2月になると、残された兵士の間で「人肉を食べた」という噂話まで広がったそうです。

 その辺については、大岡氏のみならず武田泰淳氏も人間が極限状態に置かれた時、「人肉を食べて」でも 助かる方法があれば何をしてもいいのか、という重いテーマで昭和29年に「ひかりごけ」を書いています。

 3月23日には、レイテ島の軍司令部のトップ、鈴木宗作中将らが島から離脱して、レイテ島では指揮官が不在のまま、兵士が飢えとマラリアに冒されつつ、フィリピン人ゲリラ部隊と米軍の火炎放射器に追われ、次々に命を落としていきました。

 

 74年前の1月前後、フィリピンのレイテ島に派兵された日本軍兵士はアメリカ兵と戦う以前に空腹、餓死との闘いを強いられ、その中では法も規律もズタズタになり空中分解して、悲劇の沖縄決戦、本土空襲、広島・長崎への原爆投下へと敗戦の旅路が始まった事実は、遠い昔の話ではなく、もう一度私たちが肝に銘じて記憶しておくべき現代史だと思わずにいられません。