2011年10月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―86 『北方文化博物館と伊藤辰治氏』

 「豪農の館・北方文化博物館」は、越後の国・新潟県の観光コースにもなっていますので、行かれた方も多いことと思いますが、その広さと豪荘な趣きは目を見張るものがあります。米どころ酒どころ新潟の豪農のスケールの大きさは、かつての日本の基盤産業が、第一次産業と云われる農業だったことを実感させてくれるに十分です。 
 国の登録有形文化財にも指定され、北方文化博物館として公開されている豪農の館は、江戸時代から続く伊藤家の家屋敷ですが、屋敷面積約9000坪(30,000㎡)、建坪も約1200坪(4,000㎡)にも及び、茶室だけでも5ヶ所あり、母屋には、60室以上の部屋がある桁外れの大きさです。越後随一の大地主として、その名は県下に鳴り響いていましたが、戦後の農地解放で、広大な農地は伊藤家の所有を離れ、この家屋敷も存続の危機を迎えました。慶応大学卒業後、アメリカの大学にも留学していたと云う伊藤家の7代目は、この家屋敷を保存、活用していく道を選択し、財団法人「北方文化博物館」を設立し、この財団に伊藤家の家屋敷を寄付した結果、当時のままの家屋敷が、保守管理されながら公開されている訳で、7代目の「先見の明」にも感心します。
 純子さんが、「父は新潟の医科で、伊藤辰治さんと同級で、親しくしていただいたようです。」「伊藤さんは、後に新潟大学の学長さんになられた方ですが、伊藤家は、現在、確か北方博物館になっている凄いお宅で、家中が宝物の山だったとよく話してくれました。」
「伊藤先生とはこちらに帰ってからも懇意にしていましたが、学生時代にお宝を少し分けてもらえばよかったと笑って話していたのを覚えています。」「家も山梨では見たこともない立派な家で、当時から外国の貴重なものもたくさんあって、とにかく凄かった。」と・・
城のように土塁を築いて濠をめぐらせた敷地の内には、素材と手間を惜しまずに造られた家屋や土蔵等々が軒を連ね、当時最高の木材を大工が技を競って作ったといいますから、三郎先生が「驚いた」と言うのも頷けます。
 三郎先生の学友伊藤辰治氏は、伊藤家6代目の弟の娘さんの婿として、伊藤家に入ったそうですが、「伊藤家の嫁とり・婿とり」は、『五代文吉は、謙次郎の嫁とりに力を注ぎます。将来の伊藤の家にふさわしい家柄の娘を探し、新潟県全域にわたり56の家を調査しますが、この志なかばに五代文吉は明治24年(1891年)2月29日に逝去し、・・』とホームページで紹介されている位ですから、厳しい「調査」の結果、辰治氏は選ばれて、婿入りしたのでしょう。当然、「ご学友」に荒くれ者がいたらはじかれるのが常ですから、親友の三郎先生の品行も調査され、辰治氏の評価を上げた結果の婿入りだったのでしょう。