かつての日本では、「家の畳の上で死」は、日常生活の一部でしたし、日本住血吸虫から回虫・蟯虫まで、ほとんどの日本人は体内で寄生虫を、毛髪でもシラミを養い、ノミが飛び交う風景も日常的でした。無菌志向社会は、これらを一掃し、疾病も世俗から排除し、死もまた日常生活から隠蔽されてきました。しかし、そうした一見クリーンで快適な生活は、年間3万人を超すとい自殺者数が減らないように、見方を変えれば、〈癒し〉が忘れられ、〈癒し〉への回路が絶たれた世界とも言えます。戦争は、戦力外の人間を排除しましたから、「病人や病気の差別の温床は、戦争だ」は世界史の定説ですが、徴兵を忌避したい者にとって〈病い〉こそが〈癒し〉だったという証言は、〈病い〉も有効な〈癒し〉であることを物語っています。極端な清潔社会と無菌志向が、「バイ菌」「クサい」などと云った新たな「いじめ」や「差別」を生んでいる日本社会ですが、世界の三大病「マラリア」「フィラリア」「日本住血吸虫症」は、かつての日本よりもっと深刻な日常生活の地域で占められています。
健造・三郎父子が治療・研究に生涯をかけた「地方病=日本住血吸虫症」をとりまく、県内での「病気差別」は、どうだったのでしょうか?1978年に山梨地方病撲滅協力会が企画し、東京文映が製作した16ミリ映画「地方病との闘い」は、県内で歌われてきたこんな悲しい歌詞の民謡で始まります。 ≪嫁にはいやよ野牛島は、能蔵池葭水飲む辛さよ≫ ≪竜地、団子へ嫁行くなら棺桶背負って行け≫ ≪中の割に嫁行くなら、買ってやるぞえ経かたびらに棺桶≫
「地方病との闘い」1部・2部合わせて46分の映像は、当H・Pのリンクにバナーのある「科学映像館」の「医学・医療 カテゴリー」で、無料配信されていますので、この民謡と映像も確認できます。
●結核と斗う(1956年)
●人類の名のもとに(1959年)
●地方病との斗い 第一部(1978年)
●地方病との斗い 第二部(1978年)
●日本住血吸虫(1978年)
●昭和町風土伝承館 杉浦医院(2010年)
要は、「地方病が流行っている地域に嫁に行くな。行くなら、棺桶背負っていけ」という民謡が、実地名を挙げて歌われていたということは、患者が特定の地域に集中していたことから、罹患者のない地域の人からの「娘を嫁に出して、地方病にさせたくない」といった親心の本音が歌になったもので、やはり一つの地域蔑視、地域差別と云えましょう。同時に有病地域でも歌われていたという背景には、地方病は日常化し、〈癒し〉としての側面を感じるのですが・・・純子さんも「地方病の患者さんが病名を隠したり、家族から隔離されたりと云った話は聞きませんでしたね。患者さんも俺は地方病だと威張っている方もいた位ですから」と云うように「昭和へ嫁に行くなら水杯で・・・」と云われていたという話も聞きますが、子どもから高齢者まで、家族に一人は、地方病と云う罹患率でしたから、町内では、特に「地方病の差別」は感じなかったというのが、一般的です。患者数が多ければ差別しきれないといった一面もあったのでしょうが、「篤農家がかかる病気」として「働き者の証し」でもあったことなど、罹患者のない地域の人は有病地を恐れても当事者には、日常の一つとして受け止められていたようです。同時に、人は困難な<状況>や<病い>に立ち向かうことが、目標や生きがいになることもあり、そういう意味でも「病い」と「癒し」は、表裏一体の一面もあると言えましょう。