2017年7月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―509『湯村温泉・昇仙閣・常盤ホテル』

  「甲府の奥座敷」とも呼ばれた湯村温泉は、湯村山のふもとにあり、歴史的には弘法大師の杖により湧出した温泉だとか、葛飾北斎から太宰治まで文化人が愛した温泉地とか言われてきました。また、真偽はわかりませんが「武田節」も湯村温泉が発祥の地との記載もあります。

 現在の湯村温泉では、老舗「常盤ホテル」に対し新興「甲府富士屋ホテル」といった図式も感じますが、甲府富士屋ホテルは本当に「新興」なのか?ひょんなことから調べてみることになりました。


 甲府富士屋ホテルのサイトを見ると結婚式等の会場も大小幾つかあるようですが、メイン会場は≪披露パーティ/SHOUSENKAKU【昇仙閣】≫と、懐かしい「昇仙閣」の名前が出てきます。

 山梨県内の「歴史資料」をネットで公開している「峡陽文庫」は、その質の高さと詳細さに加え貴重な画像資料が豊富で、当サイトへの転載使用も許可いただいて来ました。甲府富士屋ホテルの歴史もこの「峡陽文庫」に上記画像と共に下記の簡潔な記述がありました。


『昇仙峡ホテルは昭和12年に甲府市郊外(当時は西山梨郡大宮村:昭和17年4月1日に甲府市に合併)の湯村温泉に開業し、同17年には名称を『昇仙閣』と改めている。
 その後、昭和37年10月5日には国際興業株式会社により買収され、新館の建設など拡張・整備されながら営業されてきたが、昭和63年に営業を終了し同年2月5日に昇仙閣跡に新たなホテルの建設が着工され、平成元年10月17日に『甲府富士屋ホテル』がオープンし現在に至っている』


 上記から、現在の甲府富士屋ホテルは、山梨の名勝地「昇仙峡」の入り口のホテルとして、昭和12年に「昇仙峡ホテル」の名称でオープンし、5年後に「昇仙閣」と改め昭和37年まで常盤ホテルと並ぶ湯村温泉の代表的ホテルだったことが分かります。そういう意味では、甲府富士屋ホテルも湯村温泉の老舗ホテルであることが、敢えて「昇仙閣」の名前をホール名に残していることでもうかがえます。

敗戦前の昇仙閣には、東京目黒にある鷹番小学校の学童が集団疎開していたそうですから、昇仙峡は秘境として人気があった時代、旧西山梨郡大宮村の湯村温泉も現在とは違った山村だったのでしょう。


 以前、古老から「昔の馬返し場所だった所が、今の常盤ホテルだ」と云った話を聞きました。

甲府市中心街(柳町周辺)から甲府駅や石和、富士川舟運の鰍沢等を馬車が結んでいた山梨馬車鉄道が後に山梨軽便鉄道となったそうですが、その資料には甲府中心街と湯村温泉を結ぶルートの記載はありませんでした。しかし、現在の常盤ホテルは、湯村温泉郷の入り口に位置していますし、甲府の奥座敷に定期馬車が人を運ぶ実需もあったでしょうから、古老の話には信憑性もあります。

この山梨馬車鉄道や山梨軽便鉄道は、山梨県の民間公共交通の元祖でしょうから、詳細を調べていきたいと思います。