2019年4月11日木曜日

 杉浦醫院四方山話―577『上杉久義村長と村営プール』

 過日、甲府市から故・上杉久義村長の次女の方がご子息と一緒に来館くださいました。

「純子さんの妹の三和子さんと甲府高女に通ったので、ここにもよく遊びに来ました」

「一緒に帰るとお手伝いさんが何人もいて、しまいのお嬢様お帰りなさいと出迎えてくれて、百姓家と違うなあと思いましたよ」

「父が政治好きで県会議員にも何度も立候補したので、杉浦先生も懇意にしてくれて、いろいろ教えてくれたようです」

「そんなこともあって、父は村の子どもが地方病にならないようにプールを造ることが夢で、その為に村長になったようです。プールが完成した時は、俺は夢をかなえたと本当にうれしそうでした」等々、1時間以上元気にお話しくださいました。

 

 歴代昭和村長の中でも上杉久義氏は、何かと話題になることも多く、インパクトの強い村長だったことは長いあごひげと共に語り継がれています。

上杉氏が村長になろうとした動機が「地方病から子どもを守るために村営プールを造ること」にあったという娘さんの言葉を聞いて「政治家の信念とか公約が生きていた時代の話だなー」と思うと同時にこの村営プールのプール開きで上杉村長自らが泳ぎ初めをした古い映像が蘇りました。

 

 山梨県では発育途上の児童生徒が地方病に感染しないよう、県や医師会が学校を通して河川で泳いだり遊ぶことを大正9年以降ずっと禁止していました。

水道や風呂が当たり前になり、エアコンも普及した現代ですが、明治、大正、昭和と甲府盆の夏の酷暑を凌ぐには近くの河川で行水が当たり前でした。教師や親の目を盗んでは川に入って遊びたいのが子どもですから完全に制限することは難しく、結果として肌の柔らかい子どもが地方病に感染する確率は高かったのも特徴です。


 この河川での行水禁止について、昭和村史には≪従って水泳ぎの技にも疎く、海国日本生まれながら水に入れば実に脆いものであり、かつて中支策戦に応召され、出征した皇国勇士が敢え無くもクリークの突破が出来ず無念の涙を呑んで護国の鬼と化した例も数えきれない。≫と、泳げないことが軍事力にも波及するとして、河川で泳げない以上≪一刻も早くプールを建設し、伸びゆく青少年達の自然の要求を充たす必要がある≫と記されています。

 

 このような時代背景もあって、上杉氏は村営プール建設を政治信条として村長になったのでしょう。現代の「待機児童解消の保育園建設」と重なりますから、それぞれの時代的課題に対処するのが政治であり行政だと云うことになります。

 有病地の小中学校へのプール設置が県の補助事業として優先的に進められたこともあり、地方病感染防止の徹底が山梨県下の学校プール設置率をいち早く日本一にしたことにも繋がりました。

昭和32年8月6日 押原プール竣工式
上杉村長自ら泳ぎ初め
-「昭和村の記録」より-