2014年5月12日月曜日

杉浦醫院四方山話―333 『玉籠集(ぎょくろうしゅう)-2』

 写真をクリックしていただきますと拡大して観やすくなりますが、この歌集「玉籠集」奥付にある歌人名簿です。このページ右上に「甲斐」とあり、県内歌人の号もしくは歌名・所在・フルネーム等が一覧になっています。

 昭和町関係では、右下に「忠告・西条・山本摂津守」と「忠徳・西条・山本摂津守」「忠義・西条・山本図書」左下に「為忠・西条・山本玄番」等々の名前が記載されています。この「山本姓」の5名は、町指定文化財・山本忠告の墓の山本一族であることは間違いないでしょうが、直系の三井夫妻に確認していただきました。

 

 すると「一番先にある光章・小河原・加賀美信濃守は忠告の実家で、忠告は、加賀美家から山本家に婿に来たんだ」

「この實啓・鏡中条・斉藤権頭はウチの親戚で、父が神主を辞めた後、この斉藤家が義清神社の神主を引き継いで現在に至っているわけさ」

「ここにある山本は全て忠告からの累代で、忠告から為忠まで5代にも渡っているけどいつ作られた本なの?」

「文久2年、1862年に編まれたとありますが・・・」

「ちょっと、あの累代表があるだろう」で、山本家の系図を拝見することになりました。

 

 

 山本家の系図は、出生年ではなく「神道裁許之年」と没年が記載されています。「神道裁許之年」は、神主になった年と云うことのようですから、忠告は、1764年に神主となり1773年に没しました。ですから、「玉籠集」が編まれた1862年にはすでに他界していたことになります。

その子、義忠は、1771年神主となり1821年に没していますから、やはり他界後になります。

忠徳は、1826年から1872年ですから、「玉籠集」が編まれた1862年当時に晩年を迎えていたことが分かります。

三井夫人の曽祖父・為忠は、1860年から1918年とありますから、1862年当時新進気鋭の歌人として、既に作品を残している可能性も十分あります。

ですから、この「玉籠集」の編集にあたっては、山本忠徳氏が自分の歌に父と祖父の残した作品と子と孫の作品も入れて編んだ結果、山本家の5代の名前が残っているものと思われます。

 

  先の三井氏の指摘のように「玉籠集」に作品を寄せた甲斐関係の方々は、山本家の面々以外にも神職の方が多いようです。そう云えば、現代短歌の大御所・岡野弘彦氏も代々神主の家の生まれで、国学院大学で学んだそうですから、神職の素養や研修には歌詠みも入っていたのでしょう。