2019年9月18日水曜日

杉浦醫院四方山話―592『GHQ統治下の日本の医療史』

  毎年8月15日になると「今年は、戦後○○年になります」と云ったアナウンスや記事が定番になっているように日本で「戦後」と云えば、太平洋戦争後のことで1945年のポツダム宣言受諾以後、実質はアメリカ軍でしたが連合国の占領、統治が始まった時からを指しています。

この連合国の占領は1952年のサンフランシスコ講和条約までの7年間続きました。

 

 日本は1945年8月14日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告し、翌日の15日正午に天皇が玉音放送で降伏したことを国民に知らせ日本の敗戦による終戦となり、8月30日に厚木飛行場に降り立った連合国最高司令官ダクラス・マッカ―サーの指揮のもと日本の戦後はスタートしたと云うのが現代史の時系列です。

  

 以前から気になっていたのは、マッカーサー着任前の8月27日には米軍406医学総合研究所のマクマレーン氏が杉浦醫院に来て、三郎先生にアメリカ人軍医への日本住血吸虫症の治療方法の伝授を依頼していることでした。

 この米軍406医学総合研究所と連合国最高司令部=GHQの正式な関係についてもよく分かりません。占領下の日本の保健医療政策はGHQに置かれた公衆衛生福祉局(PHW)が管轄していたそうですから、このPHWと406は連合国組織と米軍組織の違いなのでしょうか?

 

 例えば山梨地方病撲滅協力会編纂の「地方病とのたたかい」誌には「米駐留軍は、終戦直後の昭和20年10月本県の地方病流行状況を視察している。22年には米軍406医学総合研究所が県庁内に臨時研究所を設け、本病把握と撲滅法の検討を開始した」とあり、マクマーレン氏が活躍している写真が4枚掲載されています。

 

 このように占領下の詳細な史実は素人が調べてもなかなか難しく、杉浦三郎氏と406やGHQとの関係も友好的だった話は純子さんからも聞いていますが、本当のところは曖昧なままです。

 

 この度、GHQ統治下の日本の医療史や感染症の歴史を専門に研究している青山学院大学文学部の飯島渉教授と研究室の皆さんが、杉浦醫院に残っているアメリカの研究者から三郎先生宛てに送られた多数の手紙やWHO関係の英字資料を紐解く作業に再度来館くださいました。

 手紙一枚一枚の内容を検証し、写真に納めパソコンに集積していくと云う気の遠くなるような作業を黙々と続けましたが、計3日間の作業では終わらず「もう一回来ます」と云いますから、正確な歴史を探求するには膨大な時間と人手が必要なことを改めて実感しました。


 また、この作業には、獨協医科大学熱帯病寄生虫病室の千種雄一教授と桐木雅史准教授も連続して参加していますから、歴史的にも医学的にもGHQ統治下の日本の医療史や感染症史には未だ謎も多いのでしょう。

 

 並行して、山梨県の地方病対策に一貫して携わってきた元山梨県公害衛生研究所の梶原徳昭氏への聞き取りインタビュー会も開き、貴重な証言を多数収録できました。

 飯島教授は「次回は、山梨大学の関係者にも参加いただいた方がよいので、宮本先生と調整して日時を決め、梶原さんの先輩の薬袋勝さんの話も実現させるつもりです」と確かな見通しと計画の元に調査活動を進めていることを教えてくれました。次回に備え、私たちも未整理の資料の用意や質問事項の精査など準備をしていきたいと思いました。