2019年12月8日日曜日

杉浦醫院四方山話―600『薬袋勝氏の証言収録』

 先日、青山学院大学飯島研究室と獨協医科大学千種研究室の先生方が来館され、二階座学スペースに薬袋勝氏を招き、インタビュー形式で薬袋先生の証言を聞く機会を設定してくださいました。

 

 青山学院の飯島渉教授は、「衛生と近代ーペスト流行にみる東アジアの統治・医療・社会ー」と云う著書を法政大学出版局から出しているように「医療社会史」が専門の歴史家です。「日本の医療史では、日本住血吸虫症終息史が住民も参加してですから最大規模で一番ですが、特に戦後の山梨県での取り組みとそれに大きく関与したGHQとの関係など未だ解明されていないことがたくさんあります」と云うことで、昨年から当館所有の資料の分析と保存を進めていただいてきました。

 

 獨協医大の千種教授は、現在の日本住血吸虫症の研究では第一人者で、桐木助教授と共にフィリピンはじめ今なおこの病に苦しむ患者の救済にも当たっていますが、山梨には毎年ミヤイリガイの採集に来て、当館にも学生を案内くださっています。医療史の飯島先生も地方病については大変ご造詣が深い訳ですが医師ではありませんから、千種教授とのコラボも必要なのでしょうし飯島教授の研究内容は千種教授にも有意義なことから共同で研究に当たられているようです。


 前回は、梶原徳昭氏の話を収録しましたが、今回は梶原氏の先輩でもあり一貫して県の地方病行政に携わってきた薬袋勝氏の証言を収録しました。薬袋氏は「山梨県立衛生研究所」の歴史的変遷をたどる中で、薬袋氏個人の感想も含め大変興味深い話を自嘲気味に話されたのが印象的でした。

 薬袋氏は、学生時代を送った昭和40年代前半の大学の研究室に馴染めず春休みや夏休みになると甲府に帰っては甲府の中心街にあった山梨県立衛生研究所の前身の研究室に通って職員と一緒に研究していたそうで、特に公務員を希望していた訳ではなかったけどそのままそこに就職したのがこの生活のスタートだったと語り出しました。


 確かに昭和40年代の大学も県庁も現在からするとまだまだのどかで同じような経緯から都教委に採用された私には時代の空気と云ったものが感じられ親近感が湧きました。同時に公務員と云った職業は基本的には余り人気のない職種として軽んじられている方が変なエリート意識で小役人根性だけと云った人間にならずいいのかなぁ~とも・・・・


 薬袋氏の話で特に興味深かったのは、戦後いち早くGHQの医薬補給部隊が杉浦醫院を訪ね、三郎先生との親密な交流を続けた経緯についての証言でした。

 GHQは、なぜ県の研究機関であり地方病対策にも当たっていた県立衛生研究所ではなく杉浦醫院と云う個人病院を通して甲府盆地でこの病気の研究を推進したかと云う謎が解けたからです。

 それは、アメリカで主流となった思潮・プラグマティズム(実用主義とか道具主義とも訳される) からすると面倒な手続きやハンコ行政の県の組織を通すより、地方病の権威でもあった杉浦三郎と云う個人医師を介しての方が手っ取り早くスムーズに事が運べたからだと思いますと云うのが薬袋氏の見解でした。


 純子さんも杉浦家とGHQ研究者との親密だった交流をよく話してくれましたし、杉浦家で和服を着せてもらったアメリカ人女性と杉浦ファミリーの記念写真や三郎先生宛ての英字書簡が数多く残っているのも薬袋氏の証言を裏付けています。

 また、昭和21年、GHQが寝台車・食堂車・研究車からなる3両編成の列車を甲府駅に常駐させて、ここを拠点に甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤の研究・実験を重ねPCPを開発したと云う、市民から「寄生虫列車」とも呼ばれていた研究車内の写真に唯一の日本人として三郎先生が写っているのもそんな関係からでしょう。


 後のベトナム戦争等で使われた枯葉剤と云う名の科学兵器の原料ともなったPCPを甲府盆地でミヤイリガイの殺貝剤として当時住民を動員して撒いた映像も残っていますから、飯島・千種両教授等の地道な研究の中で、GHQの果たした地方病終息の役割やより正確な評価も明らかになっていくことは、歴史学の醍醐味でもあると思えた薬袋氏へのインタビュー収録でした。