2014年3月8日土曜日

杉浦醫院四方山話―318 『民具ー2 麺箱』


  上の写真は、昭和4年に醫院棟を新築した際の上棟式終了後、「清韻亭」と命名されていた母屋座敷での祝宴の一コマです。中央の白い装束が、施主の健造先生で、何人かの酌婦らしき芸者も入れて30名以上が写真に納まっています。純子さんの話では、この座敷で、健造先生や三郎先生が仲人を務めたカップルの結婚式や杉浦醫院ホタル見会など宴席が多かったそうですから、この祝宴を支える裏方の人数とご苦労も半端ではなかったことでしょう。

 

 納屋の改修工事中は収蔵庫に移しておいた杉浦家の宴席用の品々も順次納屋に戻して展示していますが、その中に、かすかに「杉浦医院」「昭和27年2月吉日」と判読できる木箱が10箱以上ありました。「杉浦医院」とあるので、医療用に使ったモノなのかとも思い、純子さんに聞いてみました。

 

「あの箱は、麺箱ですね。宴会にはよく蕎麦やうどんを出しましたから、麺箱に茹でたうどんを玉にしてそのまま出して、空になると次の麺箱で追加して、ついでに空いた食器などを入れて下げましたから、便利な箱でした」と・・・

 

 確かに酒席での麺類は美味しいものですし、地粉を使った手打ちの麺を外の大釜で茹で、茹でたてでいただければ、こんなご馳走はありませんから、次から次に出し入れが必要だったのでしょう。そうなると矢張り10箱以上の麺箱を用意しておかなければならなかったわけで、あらためて自宅で宴席を催すことの大変さをこの麺箱が象徴しているように思いますが、純子さんは「昔の炊事には男手も必要でしたから、お手伝いの方も男女で和気あいあい、大きな声で話したり、笑ったり、お祭り気分で楽しそうでしたよ」と、往時を懐かしんでいました。

 

 「祖父は、お酒は飲めないのに宴会好きでしたから何かにつけて人呼びをして、飲んだように楽しんでいましたが、父は不調法なんでしょうね、もっぱら煙草を吹かすだけでしたから、父の代になって宴席は少なくなりましたが、それでも何だかしょっちゅう他人がいる家で、家族だけの食事なんてあまり記憶にありませんね」と、三郎先生も客人を歓迎していたようです。

 

 現在でも純子さんのもとには、茶道・有楽流の方々がよく訪れては、抹茶で茶菓子を愉しんだり、「ここではよく肉が出たから楽しみで、昼も夜もごちそうになったさ」と三郎先生の時代から出入りしていたと云う方など来訪者が絶えません。これも代々「金持ちより人持ち」を流儀に培ってきた杉浦家の家風なのでしょう。