2019年7月22日月曜日

杉浦醫院四方山話―587『篆刻教室』余話

 猛暑になる前のこの季節、2階座学スペースでは杉浦醫院伝統文化教室を毎年開催しています。今年の教室も昨年好評だった「篆刻(てんこく)」ですが、講師が現代の名工に選定されているお二人なので、両日とも会場は所狭しと云った感じでした。


 六郷の工房から自ら運転して来てくださる上田隆資(号:楠瑞)氏は、御年85歳ですが、日展入選作家であり、永く山梨県の現代の名工として著名でしたが、昨年11月に国の名工に選定され、マスコミでも話題になりましたから、御存知の方も多いことと思います。

 

 その上田氏の「2番弟子」を自称する小宮山一昭氏も県の名工として全国的に活動されていますが、至って控えめな方で師匠の上田氏によれば「1番弟子だ」そうです。

 お二人は、篆刻はもとより渓流釣りと酒席でも師弟関係にあるそうで「ハンコ職人にもいろいろな人がいますが、師匠は釣りやお酒などアソビも大切にしていますから、作品にもソレが出てハバがあるのが魅力で慕ってきましたから、今日も皆さんの前で師匠、師匠と呼びますが・・」と古希を過ぎた弟子の小宮山さんは言います。そんな二人の指導ですから、和やかで初対面の受講者も伸び伸び彫ることが出来、楽しそうでした。


rokugo1  さて、上田先生の「公望山荘」と云うアトリエは、現在の市川三郷町にありますが、合併前は六郷町です。六郷町は「日本一のハンコの里」として、日本人のハンコの60パーセント近くを生産しているそうですが、前から「何故、六郷がハンコの里になったのか?」疑問でしたので聞いてみました。

 

 「元々六郷では足袋(たび)を作って、着物なんかと一緒に全国を甲州商人なんて呼ばれながら行商して生計を立てていた地域だった。時代の流れで足袋や着物は需要がなくなり売れなくなって、足袋に代わるものとして山梨は水晶が採れたので、足袋づくりの技術も活かして、水晶でハンコを作ったのがハンコの町の始まり。ハンコは一人に一本は必要だからと思っていたけどハンコレス社会と云う時代の流れだから、何時までもハンコの町という訳にはいかない感じだね」と小宮山さん。


 「まあ流れはそうだけど、六郷には明治から大正にかけて河西笛州と云う篆刻の大家が居て弟子を育てていたのも大きかったね。最盛期は字を書く人、荒彫りする人、仕上げ彫りする人と分かれ、全部で300人以上がハンコづくりに携わっていたね。戦争中は兵隊も給料もらうのにハンコが無いともらえないから国内だけでなく満州など戦地にもハンコを持って売りに行ったんだから。日満なんてハンコ屋は満州専門のハンコ屋だったね。コンピューターや機械彫りが入ってからは字が書けなくてもハンコが出来るようになって、篆書が書けない職人がいっぱいで、これも時代の流れだね。」と上田師匠。


 上田先生は「自分の技術や秘の技法をあの世に持って行ってもしょうがないから、問われれば全て教える」と云い「いつもこれが最高の作品ではない。次はこれ以上の作品を」と戒めて篆刻に励んでいるそうで、国の名工と県の名工と云う師弟が快く当館まで出向いて、一本一本批評して手直しから制作日のサイン刻みまで惜しまず応じている姿に「実るほど頭を垂れる稲穂かな」も実感できた「篆刻教室」でした。