2019年6月30日日曜日

杉浦醫院四方山話―585『武田信玄の治水と稲作または文化人類学者の視点-1』

 過日、広島大学の准教授で文化人類学者の松嶋健先生と同志と云う死語がピッタリの広瀬隆士先生が土日の2日間を利用して、山梨にフィールド・ワークにみえ精力的に県内を廻りました。当ブログを愛読していると云う広瀬氏から「石和温泉に投宿するが素泊まりで食事は地元の人が使う居酒屋あたりで・・」と事前に連絡をいただきましたので、居酒屋と聞けば「ご一緒しましょう」と石和温泉通りのAに予約を入れ一献傾けました。


 両氏は「日本社会臨床学会」と云う学会に所属し、中心メンバーとしてご活躍もされていますが、話が多岐に渡るだけでなく深く、速いのが共通していました。そんな訳で、約3時間飲みかつ話した内容は豊富で、とても全ては紹介出来ませんので、地方病とミヤイリガイは、なぜ日本国内で限定的な地域に発生したのか?の謎についての話を報告しておきたいと思います。


 松嶋先生は文化人類学がご専門ですが、2014年に刊行された著書「プシコ ナウチィカ」は「イタリア精神医療の人類学」と副題があるようにイタリアの精神医療の到達点を紹介することで日本の精神医療の課題や問題を照射する鋭い考察で、現在、日本の大学医学部では学生の必読書にも選定されているそうで、既に4刷を重ねています。


 その松嶋先生から「山梨には三枝氏と云う豪族もいたのに武田氏に一本化されたのは信玄の治水でしょうか」の問いかけから始まり「世の中で常識とか定説になっている事に❔と疑問を抱くのが文化人類学だから・・・」と「信玄の治水事業が甲府盆地に地方病を蔓延させた可能性が考えられる」ので、その辺の検証も今回訪問のテーマであることを知りました。


 当館の住所は昭和町西条新田850ですから、江戸時代の新田開発で新たに西条地区に生まれた新田に由来していることを物語っています。山が多く、平地の少ない日本列島で、弥生時代に稲作が伝播し、人は定住し水田は各地に広がっていきました。以来、稲作を中心とする国土づくりと米が社会の基本=税の時代が続き、人々は森林から湿地、沼地まで水田化し農業を営み、むらをつくり、都市へと「発展」させてきました。稲作文化とその風土は、日本人に勤勉の気風をはぐくみ、農地を拡張して人口を増加させることを「発展」「繁栄」の基礎としてきましたが、それが本当に「発展」「繁栄」だったのか?

文化人類学者の視点です。


 杉浦醫院に来た患者さんは「俺も地方病になったぞと、ちょっと自慢気で威張ってましたよ」と、純子さんが話してくれましたが、「地方病は勤勉な篤農家の証」ともなっていたようですから、稲作が日本人の価値観を形成してきたのも間違いないでしょう。


 「群雄割拠」の戦国時代、多くの権力者が日本の各地に大小さまざまな国を乱立させ、甲斐の国山梨では、武田信玄が争い生き残って勢力を広げ、天下統一も現実のモノとする権力を持ちましたが、子・勝頼の代で終焉したのはご存知の通りです。信玄は、治水事業を命じて水を管理し、水田を増やすことでアワ・キビ・ヒエなどに代表される雑穀から米への転換に成功したことも権力奪取や維持に大きかったことは、歴史学者も指摘しています。

 

 「石高(こくだか)」と云う単位の一石は、大人一人が一年に食べる米の量でしたから、これが兵士への報酬となり、領地の石高と同じだけの兵士を養えることになります。石高は戦国武将の財力と兵力を象徴しますから、武田信玄も暴れ川を「甲州川除術」を考案して治水に努め、石高増強を図る必然性があったのでしょう。

 新たに水田を拡げるには水路を張り巡らす必要もありますから、当時としてはとてつもなく多難なことだった思いますが、山の急斜面にも「棚田」とか「千枚田」と云われる水田を造りましたから、共同作業による水田拡大は全国津々浦々まで浸透して、楢やブナの木に覆われた山の景観は大きく変えられたことでしょう。

 

 現在では守るべき自然景観として「日本の原風景・棚田」と云った表現も極自然に使われていますが、元々は山であった急斜面まで水田に変えた稲作は、日本の原風景を破壊した結果でもあり、歴史的には農業も自然破壊の誹りは免れないこと、この甲府盆地のような低湿地帯にも水田を拡張して石高を上げようとした信玄の治水事業が地方病蔓延と無縁と言えるのか?

文化人類学者の視点です。 ・・・つづく・・・

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このような棚田も現在では「保存する会」「守る会」等の存在なくしては山野化しているのが実態です。「現在起こっている様々な問題も100年、200年と云った短いスパンではなく、人類史的に長いスパンで見ていくことが大切ではないか?」と広瀬氏も指摘していました。