2019年3月7日木曜日

杉浦醫院四方山話―574『角野幹男前町長追悼-1』

 3月2日(土)未明に角野幹男前町長が肝臓がんで76歳の生涯を閉じたとの連絡がありました。当館は角野町政で誕生したと云っても過言ではありませんから、追悼の意を込めて、角野氏と当館誕生の経緯を記しておきたいと思います。

 

 角野氏は、若かりし頃青年団でも活躍し、昭和町の消防団長も務め、その頃はウイスキーをメインに豪快に飲んだそうですが、町長在任中はアルコールは一切飲みませんでしたから、それだけでも私には出来ないことで、覚悟無くして就けない職であることを身をもって示していたように思います。

 後に町議にもなった山本哲さんが立ち上げた昭和町カルチャーデザイン倶楽部と云う自主サークルではよく飲み会もしましたが、角野氏の下で消防団活動をしてきた望月さんは「角野団長が選挙に立つと俺は山本さんの応援はできない。団長にはホント世話になったから」とよく言っていたのを思い出します。「そういう消防つながりが田吾作文化の元で俺は大嫌いだ」とすかさず反論した塩島さんも元気でした。

 

 

 望月さんの予想通り角野氏は1999年(平成11年)から町議となり2期務めましたが、町議時代は反町長派の先鋒と云ったスタンスで議会でも質問していたのを覚えています。

 2007年(平成19年)には、その現職町長の後継候補に挑む形で一騎撃ちの町長選に立候補し「モノづくりから人づくりへ」をキャッチフレーズに当時流行ったマニフェストを提示しての選挙戦を展開し当選しました。そのマニフェストの中に「杉浦医院を町の郷土資料館に」もあったことから、角野町長になって初めて杉浦醫院の資料館化についての話が進み出しました。


 それまでの歴代町長からは「昭和町に無いのは後は郷土資料館だけだから・・・」と資料館建設の用意はあるので、展示物や内容を詰めるよう再三云われてきました。それもあって、町民の皆様に民具や農具の寄贈を呼びかけ、一定量の寄贈品も集まりましたが、立派な資料館を建てても展示品があまりに貧弱な感は否めませんでした。


 そこで、町の文化財審議委員と社会教育委員の各委員に収集した農具や民具を観ていただき、昭和町の郷土資料館についての協議を重ねました。その結果「昭和町の歴史は水の歴史だから展示内容は水の歴史が伝わる資料館」にという結論でまとまりました。


 国の天然記念物だった「源氏ホタル」も信玄堤の一環としての「かすみ堤」も甲府市南部の水道水「昭和水源」も「水田風景」も「ぶっこみ井戸」もそして「地方病」も全て「水」無くして生まれなかった風土であることを新しい住民も多い昭和町では、伝えていくべき価値と内容があることをまとめ、新たに資料館を建設するのではなく「地方病の神様」と仰がれた杉浦父子の「地方病の病院」と呼ばれた杉浦醫院が現存しているので、これを活用することが出来れば一番いいのではないかと具体化しました。


 がしかし「あんな古い家を買ってどうするでぇ」のトップの一言を補完する様に町幹部から「杉浦さんは絶対町には売らんよ、杉浦家と町の関係をあんたは知らんから・・」と忠告されました。「確かに古い建物ですが文化財としての価値があり、新しい町だからこそ残すべきでは」とか「杉浦家と町の関係についても何にも知らないけど人は変わるし、話してみなければ分からないのでは」と反論しましたが、先に進むことはありませんでした。

 

 そんな経緯で立ち消えになりかけていた構想が、角野氏のマニフェストで息を吹き返したのでした。

当時の杉浦醫院には、三郎氏の長女純子さんがお一人で家屋敷を守っていましたが、既に80歳を過ぎ、庭木の手入れなども行き届かず荒れも目立ち始めていました。

 

 角野町長就任後、その純子さんを相手に町への移管、買い取り交渉を進めるよう言われた時は、構想が一気に具現化できる可能性に胸も踊り訪問を重ねました。

「杉浦健造・三郎父子を顕彰し、地方病終息の歴史を昭和から発信していくのには、ここが必要で最適です。この病院棟と母屋は、町に移管されたら必ず国に申請して、国の登録有形文化財に指定されるよう図りますから、永久に残ります」の直球一本勝負でしたが、徐々に純子さんの硬さも和らいでいくのが励みにもなりました。


 約1年弱の時を経て「町にお譲りした後も生まれ育ったこの家で元気なうちは生活させてくれるなら・・・」と純子さんから具体的な希望である唯一の条件が提示されました。「それは私の一存では・・」と持ち帰り、角野町長の決裁を仰ぎ、町長同伴で返答に伺いました。角野町長は「町が購入してからの整備工事は順番にやっていくので母屋はまだ何年も先になりますし、町に移管された後も純子さんが居てくれた方が杉浦先生や病院の事も教えてもらえるので、ご希望通りこちらで生活を続けてください」と純子さんの条件を受け入れての購入意志を伝えてくれました。

 

 これが決め手となり一気に杉浦醫院購入へと進みましたから、純子さんの希望尊重と云う英断は、角野町長がマニフェストに込めた思いとそれを誠実に実行していこうという政治家の姿勢を表象していました。その後も三郎先生がよく家に往診して父を診てくれた思い出などざっくばらんな世間話が純子さんと続き、角野氏の庶民的で話好きな一面も同席して知ることが出来ました。 ー次話に続くー