2019年3月13日水曜日

杉浦醫院四方山話―575『角野幹男前町長追悼-2』

 角野前町長と当館誕生の経緯を前話で振り返りましたが、その中の「杉浦家と町の関係」について、役場でも継承されていませんからきちんとお伝えしておく必要があると考えました。

正確には「杉浦家と町行政(町役場)の関係」と云うのが実態であったように思いますが、純子さんの証言も含め記しておきます。

 

 それは、村長在任中亡くなった杉浦健造先生の功績を讃えるべく当時の押原学校に昭和9年10月1日に建立さた「頌徳碑」の戦後の扱いの問題でした。

 太平洋戦争末期、資源に乏しい日本ではさまざまな物資が不足し、戦争の長期化と共に国外からの輸入に頼れなくなると国内から集めるしかなくなりました。そこで目をつけたのが、個人や地域にある資源でした。特に金属は兵器に必要ですから重要視され、1938(昭和13)年の「国家総動員法」で家庭や公共施設の金属を対象に政府は金属供出を呼びかけました。それを受けて、隣組や国防婦人会が組織的に地域のマンホールの蓋や鉄柵などの供出を始め、押原学校の「頌徳碑」も健造先生の胸像部分がブロンズ像だったことから昭和18年2月28日に供出されました。昭和町誌には「軍艦か戦車の原料鉄に改鋳されるため、戦場に召された」とあり、出兵兵士と同様に頭には日の丸の鉢巻きで「杉浦健造」と記名されたタスキをかけて、胸像は送り出されたそうです。

 

 敗戦後、進駐したGHQは日本の民主化を図るため数々の改革を命じましたが、昭和20年12月の御真影奉還令を筆頭に公教育での個人崇拝につながるものも禁じました。胸像が供出され石の台座だけが残った頌徳碑もその流れの中で、学校から撤去されることになったのでしょう「戦後、町が台座をポンと返しに来ました」と純子さんも話してくれましたが、町誌にも何年何月に台座を返却したかの記述はありません。

「父と母は何の連絡もなく台座を置いて行ったのに怒りましてね。こういう非常識なことをする町とは今後一切付き合わない。校医も辞めると言っていたのを覚えています」とも話してくれました。


 以上が「杉浦家と町の関係」の概要ですが、この後、町も杉浦家との修復を図るべく昭和40年9月1日に「形象移転について誌す」を当時の野呂瀬秀夫村長名で出しています。

そこには台座を杉浦家に移転する経緯について「このたび押原小学校校舎の全面改築にあたり、他に移転の止むなきにいたり、ことの次第を当主杉浦三郎先生ご夫妻にご相談申し上げ、幸いご承諾を得たので村議会の議を経て、杉浦家にご移転申し上げることとなる。ここに新校舎第一期工事着工の日にあたり、形象移転の事情を記し後世に伝えんとするものである」とあり、台座の移転は、新校舎建設の物理的原因によるものとされています。


 しかし、台座が「何の相談もなくポンと返された」のは、昭和40年ではなく戦後間もなくであったと云う純子さんの記憶とは、時期も内容も大きな隔たりがありますから、三郎先生の校医辞退等の申し出を受けて、行政は新校舎建設を機にこのような形で関係修復を図ったとみるのが自然でしょう。

このようないきさつを覚えていた町幹部は、前話のように「杉浦さんは町へは絶対売らんよ」と云う忠告につながった訳で、台座返還の経緯を巡って、杉浦家のシコリはかなり根深いものがあったことは確かです。


 そういう過去も含めて、角野前町長の施策が杉浦家と町の関係の全面修復に寄与したことは「町がこんなに良くしてくれて、父や祖父もさぞ喜んでいることと思います」と純子さんが折に触れて発していた言葉が物語っています。