晩春と初夏の微妙な季節である5月は、杉浦家の座敷の掛け軸も月の前半と後半で掛け替えて、月初めは、43話で紹介した「躑躅の軸」でしたが、現在は「藤の軸」になりました。茶席では、開催する時間やお茶の濃淡によっても軸や茶花を変えるのが正式だそうですから、月に2回の掛け替えも純子さんには、当たり前のことのようです。
5月後半の後伏見院真筆の「藤のお軸」について、桐箱の中にあった資料を基にご紹介します。 この軸も八百竹美術店経由で杉浦家に納められた一幅ですが、小林店主が杉浦家に紹介した掛け軸は、全て細身で上品な色合いの表装で一貫しています。これは、純子さんが武家茶道「有楽流」の師匠であることにも関係し、「茶掛け」と云って一般の掛け軸より控え目な大きさと色合いが特徴です。本紙の短冊切り作品は、かな書とはいえ、後伏見天皇の真筆が達筆すぎて私には解読できませんが、「藤の軸」と云うとおり、古今和歌集135番の「藤」をテーマに歌ったものです。作者は、柿本人麻呂との説もありますが、定かではありません。
『我が家の池のほとりの藤の花は、波のように揺れて咲いているのに、山のホトトギスはいつになったら訪れて、鳴き出すだのだろうか』と云った内容かと思います。 藤は晩春から初夏にかけて咲きますから、花の盛りがホトトギスの訪れる時期と一致するはずなのにまだ鳴き声がしない。と云った、初夏の到来を知らせる時鳥を待望する花鳥風月を愛でた歌といえましょう。
掛け軸は、着物や花器と同様、「茶道」と共に定着して現在に至っていますが、私たちの日常習慣や礼儀作法の大部分も茶道からのものであることからすれば、「千利休」は、銅像やお札になって、もっと顕彰されてしかるべきだと思うのですが・・・反面、「茶道」は何か取り澄ました上流社会のシンボルといった印象や金持のお稽古事といったうさん臭さも感じます。「侘び寂び」といった言葉や茶会の静かで瞑想的な雰囲気から、利休も枯れた哲人的芸術家のような人物像を想像しますが、最期は秀吉から切腹を命じられ、ほとんどの高弟も切腹ないし斬殺といった悲惨な死を遂げていますから、茶聖として神のように崇められている利休像とはかけ離れた血みどろの生活の連続でもあったようです。茶道に限らず、日本の文化は、「以心伝心」と云う言葉があるように師の教えを文書で伝えるのではなく、口伝や心や体で覚え、伝えていくことを重んじてきましたので、利休はじめ創始者の実像や正確な史実が残っていないのもカリスマ性創造には、逆に有効だったのでしょう。