「八百竹のご主人さんが、山梨では骨董の目利きですから・・・」と純子さんが教えてくれましたが、「八百竹のご主人さん」は、甲府の八百竹美術品店の社長さんで、茶道具や書画、骨董品を専門に扱うお店を経営されています。甲府空襲で焼かれてしまい、甲府の中心街は、城下町の名残がなくなってしまいましたが、岡島の東隣にあった山梨の老舗料亭「八百竹」の大きな和風の建物も焼失した歴史的建造物の一つです。八百竹美術品店の前身は、この料亭・八百竹ですが、江戸料理「八百善」で修業した先祖が、江戸幕府の直轄地・甲府に料亭・八百竹を開いたようです。江戸の花柳界の様式美や優美で格調高い「お座敷遊び」の世界も同時に持ち込まれ、八百竹では、山梨の政財界や、文化文芸界のハイクラスな客筋が「お座敷遊び」の世界を楽しんだものと思います。花柳界、花街は、別名「三業地」とも言われたように「料亭」「待合」「芸者置屋」の三業が必ず同居していましたから、料亭・八百竹をとりまくその辺の歴史も調べてみたいものです。
杉浦家の永仁の壷を観た八百竹のご主人さんが、「唐九郎かな?ウスケかな?」と云ったというウスケは、加藤宇助です。『お騒がせ贋作事件簿─だます人だまされる人』の著者大宮知信氏は、『陶磁器の模造品作りの名人だった加藤宇助(故人)という陶芸家はろくろによる手作りでは注文に追いつかないため、型を作っての流し込み手法で大量生産していた。宇助の他にも“永仁の壺”を作った焼き物師は何人かいて、結局4000個以上の“偽永仁の壺”が出回ったという。世に贋作事件は数々あれど、かくも大量に贋作のニセモノが出回ったのは永仁の壺ぐらいだろう』と書いています。
「永仁の壺」は、加藤唐九郎が作った“偽物”ですが、この“偽物”は、長男嶺男作だと孫が言い出し、 さらに“偽物の偽物”を加藤宇助が大量生産し、他の瀬戸の名工モノもあるというのが実態です。 唐九郎も嶺男も宇助もやはり非凡な才能と技量を合わせ持っていたからこそ、鎌倉時代の模造品の製作を思いつき手も染めたのでしょうが、永仁の壷が偽作であることがはっきりしてから、尚一層脚光を浴び、作品に高値がついたのもこの面々に共通しています。また、この世界では、先達の技術や感性を真似て学ぶことが奨励されていますから、まったく同じものを描いたり作ったりしても盗作とか贋作という感覚はなかったことも確かでしょう。「宇助作は、鎌倉時代の古作と倣う作品で、唐九郎作より出来は良い」と得意に書き込んでいるコレクターもいます。まあ、こういう男は、「何でも自分の所有物が一番」なのでしょうけど、酒は一緒に飲みたくありません。「そんなに自慢なら、お前の女も見せてくれ。一番かどうか決めてやる!」と突っ込むワルイ酒癖が、直っていませんので・・