小山氏は写真のように穏やかそうな紳士です。「陶の詩人 小山冨士夫の眼と技」展に掲げたプロフィールを読むと「勤勉、誠実かつ社会正義に富む魅力的な人物」と感じます。客観的な略歴ですので、ご一読してみてください。
小山氏は、唐九郎同様、作陶家として生きたかったのに研究熱心なあまり、陶磁学者として重用され文化財保護委員となり、陶磁器の鑑定や評価の第一人者として、日本や中国の古陶磁保存活動に献身していく中で、事件に巻き込まれたのでは・・・・というのが一般的な推測です。そう思うに足る才能と知識、行動力を兼ね備えた人であったと感じさせるプロフィールです。
事件の引責辞職後もこの事件について、一切語らなかった潔さもさることながら、その実力を高く評価していた出光美術館創設者・出光佐三氏が、小山氏を理事として招き、美術品蒐集とコレクションの整理を任せたそうです。小山氏のシャドー・ワークなくして、日本および東洋の古美術を中心に構成された今日の<出光美術館>はないだろうという評価もうなずけます。
しかし、小山氏は、平凡社の「世界陶器全集」全十八巻をただ一人で監修し、河出書房の「世界陶磁全集」にも解説を書くなど、陶磁器の絶対的専門家として、権威者となっていたのも事実です。また、文部次官や文部大臣に陶磁器個々の価値や評価が出来るわけもなく、重要文化財にするのも国宝にするのも、小山冨士夫その人で、国が認める最高鑑定者という権力者でもあったようです。「永仁の壷事件」は、この小山氏が加藤唐九郎にだまされたというのが一般的になっていますが、「本当は、そんなに単純な話ではない」とする見方や議論も多くあります。確かに、「権力は必ず腐敗する」は、近年でもインドネシアのスハルト一族やPLOのアラファト議長、現在進行形のリビア・カダフィ大佐と歴史上ひとつの例外もない事実を実感していますので、国指定のお墨付き権を一手に握る小山氏が、「腐らなかった」という保証はありません。たとえ腐った上での共犯者だったにせよ、晩年、自宅と「花の木窯」を岐阜の山里にしつらえ、小川のせせらぎを聞きながら、男は黙って・・・・数々の名作を残した小山氏の人生は、「重要文化財にまで認定されたほどの贋作・永仁の壺を作った男」として、晩年ますます雄弁かつ有名になった唐九郎氏の人生とは対照的です。個人的には、事件を総括した人間として、遥かに高いステージの生き方を選択し、好きな陶芸に打ち込んだ小山冨士夫氏の静かな晩年に私は惹かれます。