2017年12月10日日曜日

杉浦醫院四方山話―526『山梨勤医協と山梨医学研究所』

 山梨勤労者医療協会・巨摩共立病院名誉院長の加茂悦爾先生は、1996年(平成8年5月)に「山梨勤医協33年 巨摩共立病院30年の回想-患者の立場に立つ医療に共鳴して-」と云う題の本を著し、発行しています。手短な「はじめに」で、この本は加茂先生が永年勤めた山梨勤医協・巨摩共立病院を65歳で定年退職するにあたり「職員の皆さんに読んでいただければ・・・」とまとめた本であることが分かります。

表紙の絵も加茂先生自らがスケッチした巨摩共立病院の全景ですから、発行費用も含めて全て加茂先生の手によるものでしょう。


 この本の存在は、当館が進めている「証言・地方病と私」の収録の中で、先生から本書と山梨勤医協が付属研究機関として「山梨医学研究所」を巨摩共立病院内に設けていたことを知り、先生にお願いしてお借りできました。市販を目的に発行された本ではありませんから、限られた発行部数だったのでしょう、先生の手元にも一冊しか残っていなことが、それを物語っています。


 さっそく読み始めるとその波乱万丈の病院史と否が応でもその中で悪戦苦闘された加茂先生の自分史が重なり、興味が尽きません。

100ページ余の全ページをコピーして、当館の図書資料として残していかなければとの思いが募る内容です。それは「文は人なり」の典型のように加茂先生のお人柄が随所に彷彿しているからにほかなりません。


 櫛形町小笠原(現・南アルプス市)で父が開業していた「加茂醫院」を継ぐべく、信州大学医学部を卒業した加茂先生は、国立世田谷病院でインターンを終了し、山梨県立病院、山梨県厚生連第一厚生病院で勤務医となったことから、当時の甲府診療所(現・甲府共立病院)の佐藤二郎事務長から再三にわたって共立病院へと誘われたそうです。

加茂先生はお母さんがクリスチャンであったことから「クリスチャン内村鑑三の直弟子で当時の東大総長矢内原忠雄先生により、私は日本的無教会キリスト教の在り方を学び強い影響を受けた、このようなことから思想的に違う甲府共立病院へ行く事に相当心配があった」と記されています。


 が、佐藤事務長の「我々は患者の立場に立って医療を行っている」の言葉に「イエスも孤児、やもめ、病人など弱く虐げられたる者の友であられた」と云うキリストの精神と一致することから共立病院への就職を決意したそうです。


 この就職から始まる加茂先生の定年までの自分史には、知られていない多くの秘話やエピソードが満載されていますから、随時紹介していきたいと思いますが、先ずは幻となった「山梨医学研究所」から始めます。


 山梨勤医協からのオファーに加茂先生が特に共鳴したのは「山梨勤医協は医療収益の1パーセントを医学研究に出費する」と云う佐藤氏の提案だったそうです。その具体化の為に閉鎖された旧伝染病棟を活用して「山梨医学研究所」を設立、医学研究の拠点にしたそうです。


 

 この「山梨医学研究所」は、昭和52年5月に開設されました。この歳の10月に「地方病の事は加茂先生がいるから大丈夫だ」と云って杉浦三郎先生が急逝しましたから、三郎先生も「山梨医学研究所」設立の話を加茂先生から聞いていたのでしょう。

また、現・山梨大学医学部の前身、山梨医大の開校は昭和53年ですから、「山梨医学研究所」は県内初の医学研究機関だったのでしょう。

 

 それは、所長に東京大学医科学研究所の草野信夫教授、副所長に都立広尾病院の江波戸俊弥博士が就くなどそうそうたるメンバーが「難病の解明」を研究テーマに集まったようです。ここで、加茂先生は「日本住血吸虫性肝病変」研究を担当して江波戸博士らの協力も得て、日本住血吸虫には感染しにくいラットの感染に成功し、更にこのラットがZ型肝硬変も起こしたことで、「病変成立上重要な知見」を得、学会や学会誌で詳細を発表したそうです。

 

 このようにそれぞれが、伸び伸び研究が出来る環境からは「もう少しでノーベル賞級の研究成果が・・」と云われる多くの成果を上げていったのですが,昭和58年4月、山梨勤医協の倒産で、この研究所も閉鎖に追い込まれる不運に見舞われました。


 加茂先生は「私の人生には、二度の大事件があった。第一は太平洋戦争であり、第二が勤医協の倒産であった」と記していますが、「絶対負債額230億円、超過債務は130億円」と云う医療史上最大の倒産だった訳ですから、院長と理事を兼任していた加茂先生には太平洋戦争とは別次元の「大事件」だったことは、その後、再建までの医療以外での再建激務が物語っています。