2014年7月8日火曜日

杉浦醫院四方山話―350『人力車ー1』

  杉浦純子さんから預かった杉浦家の膨大な手紙類を仕分けして、整理保存作業を若林さんが進めています。健造先生宛のものが八割、三郎先生宛が二割と云った感じですが、三郎先生はいち早く電話を引いたことから、細かな連絡等は手紙より電話の時代になったことが大きいのかと思います。


 

 健造先生宛て手紙は、縁者や業者からミヤイリガイの発見者・宮入慶之助氏や山本節氏など医学関係者から文化関係者までと交友の広さが伺えると同時に全て毛筆で、達筆な文字が共通した特徴です。

これは、基本である「読み書きそろばん」の習得が、医学博士から職人さんまで徹底していたのでしょう、流れるように書かれた文字は判読も難しく恥じ入るばかりで、電卓に続きワープロやエクセル機能と云ったIT化で、確実に「読み書きそろばん」能力は衰退の一途をたどっていることを思い知らされます。


 整理しながら若林さんは「こんなモノが出てきました」と面白いモノをピックアップしてくれます。

今日は、「東京市神田錦町 井上製車店」から明治43年5月11日の消印で「杉浦醫院様」宛の封書でした。中には井上国太郎店主からの直筆手紙と「人力車製造仕様書」がありました。

 健造先生の人力車購入希望に井上国太郎店主が「一金 三七円五拾銭也」で「右之通り製造」と見積した仕様書には、箱や泥除けの寸法と塗りは極上、車輪のスポーク数十八本、幌の構造や内装の色は紺で生地は絹等々細かく仕様が記載され、「外に金弐円四拾六銭 甲府マデ運賃」と但し書きもあります。

 店主の私信には、「バネの採用で乗り心地が良くなっている」ことなどと「大輪 鷹ノ羽」「蛇ノ目 鷹ノ羽」と図入りで、車輪の真ん中のスポークが集まる部分と折りたたみ幌の蛇の目には、杉浦家の家紋である「鷹ノ羽」を装着する旨も書かれていますから、オプション仕様の人力車であることが分かります。


 純子さんが「祖父の時代の正月の医師会の集まりは、何時も甲府の積翠寺温泉で、県内のお医者さんが人力車に乗って集まったそうですが、甲府駅から武田神社までも登り坂ですが、そこから積翠寺はもっと急になりますから、乗ってる医者はいいですが、曳く車夫の方は大変でした。それでも皆さん競争のように曳いて登ったそうですよ」と話してくれたのを思い出します。

 馬車の馬よりも人間の労働コストのほうが、はるかに安かったと云う理由もあって、明治時代急速に人気の交通手段になったと云う人力車は、車夫あっての車ですから、わざわざ甲府の山の中まで曳かせなくても…と思いますが、車夫は普段から足腰を鍛え、「この日のために」と一気に登り切るハレの場だったのかもしれません。