2014年6月2日月曜日

杉浦醫院四方山話―341 『山梨巡幸の詳細』

 石原よ志子さんにお借りした写真から「昭和天皇の全国巡幸」にまつわる話を続けてきましたが、知りたいことを調べていくと知らなかったことの多さにも気づきます。


例えば、天皇の「行幸(ぎょうこう)」と「巡幸(じゅんこう)」の違いも知りませんでした。

行幸(ぎょうこう)は、天皇が練兵や軍艦の天覧など1ヶ所又は1目的のために行って帰る場合だそうです。鮎漁をして競馬や兎狩りなどを楽しむ場合は2,3か所になりますが、やはり「行幸」です。

巡幸(じゅんこう)は、天皇が違った目的を達成するために数箇所めぐって戻ってくることを指すそうです。

 

 常盤ホテルが、なぜ天皇の宿泊所に選定されたのかを調べていたら、明治天皇が山梨に行幸した時は、甲州台ヶ原の造り酒屋「七賢」の山梨銘醸が行在所(あんざいしょ)だったことが分かりました。

同時に、天皇の宿泊所は、「行在所(あんざいしょ)」と称することも知り、「行在所(あんざいしょ)」とは、天皇が外出したときの仮の御所と云う意味だそうで、事前に推薦があった建造物を県が調べ、決定していたようです。山形県の行在所である山形市出羽の半沢家住宅は、10年の歳月をかけ、多大の財により最高の資材、最高の技術で建てられた木造建造物で、内部には、皇室・皇族から拝領した御品々も展示され、一層品格を高めているそうです。

台ヶ原に現在もある「七賢」の山梨銘醸:利き酒も出来、行在所も見学できます。

 さて、昭和22年10月14~15日の昭和天皇山梨巡幸のルートや目的の詳細が、「日本の心を育むネットワーク」の ■昭和天皇の全国ご巡幸《山梨県》(34)にありましたので、そのまま貼り付けてご紹介いたします。

 

《山梨県》 (昭和22年10月14~15日)

【克服された風土病に御安堵】
   (―農民の健康を気づかわれて―)


 御視察第八日目の14日、天皇陛下は長野県下の巡幸をつつがなく終えられ午後零時50分上諏訪駅発、同2時22分韮崎につかれて御勅使橋から砂防治水工事を望見された。明治以来三度水害に勅使を差遣わされたところである。陛下は新潟で蚕虫病の研究を御聞になったが、山梨県の地方病吸血病の発生地玉幡村にも行かれた。ここで地方病研究所長から吸血病の話を聞かれたが、この病原体は巻貝に寄生し、水田に入る農民を犠牲にするが最近では、ワクチンが完成して死亡はほとんどないとの説明に陛下も御安堵の御様子であった。

 

 【荒ムシロ敷きの部屋に入って御激励】              


 翌10月15日は早朝7時30分に御泊所を出られ、国立甲府病院に御成りになり、各病室を廻って戦傷者、戦病者を御慰めになった。次いで、隣接する旧63部隊に収容されている戦災者を激励された。そこは畳などない荒ムシロ敷きの部屋であった。
「苦しいでしょうが、どうか明るい生活を送ってね」
陛下の御言葉に、戦争犠牲者たちは泣き伏すのみであった。
次にオープンカーに御乗換えになり、沿道の歓呼に応えられつつ 春日小学校を経て市外へ出られ、酒折、山梨の各村を通り、県内で水害の一番ひどかった日川村に入られた。ここは村内の二分の一に近い田畑が土砂に洗われ、青田変じて砂原と化したところである。御下車して村長の説明を堤防上で聴取されたが、今回の水害は明治40年から4回目であると奏上。集まった郡民を激励された。
 午後は県立工業試験場、山梨染工を御視察になり大月町着、ここで同地方1万3千人の奉迎を受けられ、万歳の嵐の中を午後4時10分、御召列車は東京へ向けて発車したのであった。この時、列車の中で召上る御夕食として甲府駅の駅弁を御持参になられた。