2014年6月2日月曜日

杉浦醫院四方山話―340 『全国巡幸四方山話-山梨巡幸3-』

  昭和20年8月の敗戦、昭和21年1月の「天皇の人間宣言」に引き続いて行われた全国巡幸は、昭和21年の神奈川県川崎市を皮切りに昭和29年の北海道まで、八年半におよび、全行程は三万三千キロ、総日数は165日にも及ぶものだった。
 

 

 敗戦当時、大部分の国民は、天皇の姿を拝するどころか肉声を聞いた人もいなかったことから、有名な玉本放送も「本当に天皇の声なのか」と疑心暗義の声もあったそうです。

 そんな状況下で始まった全国巡幸は、結果的には、天皇が一人の「人間」として国民の中に歩み寄り、親しみを交わすことで、「大衆天皇」というイメージを全国民に定着させた画期的なものとなりましたが、天皇の戦争責任を問う声から「夫を、子どもを返せ」と云った素朴な声もある中、危険に満ちた全国巡幸を覚悟でもあったようです。


 また、日本の軍国主義や天皇個人崇拝の復活を警戒していたマッカ-サー進駐軍は、日本政府に神道に対して国家補助のすべてを打ち切るよう指令し、「石の一つも投げられればいい」と公言していた者や、進駐軍ナンバ-2のホイットニ-准将は、「天皇が、猫背のその貧弱な姿を国民にさらせば、天皇が「カミ」などと云った虚妄は完全に打ち砕かれる」とこの全国巡幸を別な視点で許可し、注視していたそうです。


 かつての軍服で白馬にまたがった大元帥の勇士から、背広に中折帽とういう庶民的な服装で、人々に気軽に声をかけ、「あっ、そう」を連発しながら聞き歩く、独特のしぐさで、天皇裕仁は天皇としての地位をもっとも堅固に確立し、ホイットニ-准将らの意図を完全に打ち砕いてしまったと云うのが、全国巡幸の歴史的評価でしょう。


 しかし、昭和22年の山梨巡幸では、警備にあたった石原よ志子さんが述懐していたように「ウソのように静かな巡幸」が、回を重ねるごとに歓迎する側がフィーバーし、関西巡幸では、当時軍国主義の象徴として禁止されていた日の丸を掲げる者がでてきたこともあって、外国人特派員から批判が起こり、天皇の政治権力復活を危惧したGHQは、巡幸の1年間中止を命令するまでになりました。


 天皇の歓迎では、私が小学生低学年の頃、現在の山の手通り「一高前」辺りで、日の丸の小旗を手に並ばされ、暑い中長時間待機させられた記憶があります。調べてみると天皇・皇后が、1957年(昭和32年)7月8日から10日まで「県内事情御視察」で、来県していますので、その折に全校生徒が沿道に並び小旗を振ったのでしょう。1949年(昭和24年)1月1日にマッカーサーが「日の丸掲揚許可宣言」を出し、実質的な占領解放となり、以後、皇室の歓迎には、日の丸の小旗が定番となったようです。

 さらに、前話の「常盤ホテルの歴史」をクリックしてみたら、「昭和32年7月 天皇陛下、皇后陛下 恩賜林林業民情御視察」で宿泊していますから、どうやら、常盤ホテルに向かう道路での旗振り小僧だったようです。


参考資料: 西川 秀和 () 「昭和天皇の全国巡幸[単行本]

 

尚、「かつて日本は美しかった」サイト 上には、添付画像として、「昭和22年10月、山梨県行幸における昭和天皇の地方病有病地視察。中巨摩郡玉幡村(現甲斐市)にて杉浦三郎による案内の様子。(PD)として、杉浦三郎先生が昭和天皇にミヤイリガイを説明している写真が掲載されていますので、クリックしてご覧ください。