2010年12月25日土曜日

杉浦醫院四方山話―16 『私の城下町』

 杉浦醫院には、健造、三郎父子が購入した医療機器が当時のまま残されています。消毒、殺菌用の機器は2台あり、両方ともトレードマークと共に「マルヤマ器械店 甲府市三日町」と印字された金属製のステッカー貼られています。また、純子さんの話には「八日町にあった」「錦町の」という甲府市内の旧町名がよく出てきます。消えていく「郡名」にこだわるのは、甲府市の消えた「町名」が、今日の甲府市を象徴しているように思えるからでもあります。

昭和初期の甲府市鳥瞰図
 武田信虎・信玄がつつじが埼の館を中心に甲斐の府中「甲府」の城下町建設を始め、江戸時代、城主柳沢吉保父子が現在の舞鶴城を中心とした城下町整備を行った結果、「城下町甲府は、関東では、徳川御三家の水戸に次ぐ城下町として繁栄したのだ」という歴史を朝日小学校で、私は叩き込まれました。朝日小学区は、武田氏全盛期には「三日市場」という“市”が開かれていて、江戸時代の舞鶴城南下に伴い、「三日町」も南に移り、「元三日町」となったという歴史を「元紺屋町」「新紺屋町」等と一緒に学び、加えて「歴史と伝統のある地域である」と「郷土を愛しむ」教育を受けました。

 私事で恐縮ですが、18歳から山梨を離れ、42歳で帰郷するまでの間に甲府の町名は一変してしまい、昔の何町と何町が「丸の内」なのかも分からなくなり、太宰が新婚時代を過ごした「御崎町」が「美咲」だなんて・・・純子さんの「百石町の知事公舎の隣に」の方が、ピンとくるということは、ジジイである証しでもありますが、「歳を重ねて分かる事もある!」に意を強くして・・「代官町」「桶屋町」「魚町」「鍛冶町」「袋町」「白木町」「柳町」「城屋町」・・なつかしい「私の城下町」の町名と共にそこに住んでいた友人や親せきの顔も一緒に蘇ります。これらの歴史的遺産としての旧町名を郵便配達などの効率を優先させ消滅させた甲府市の町名変更は、私に限らず市民、県民の「私の城下町」を博物館に追いやっただけと思うのは私一人ではないでしょう。朝日新聞山梨版に女性記者の「中心街「ココリ」開業2カ月 裏切られた活性化の夢」と題する歯切れ良い厳しい総括がありました。
 ノスタルジーからだけではなく、甲府の再建には、集客施設建設問題より「城下町・甲府」を再構築していく、町名再考を含めた基本計画が聞こえてこないのが、私には残念です。

杉浦醫院四方山話―15 『中巨摩郡』

 甲府駅で電車を降り、運転手に「杉浦医院へ」といえば、当時のタクシーは、確認することなく、当地まで直行したと訪問者の著書に記されていますが、「ミヤイリ貝」の発見者・宮入慶之助博士からの手紙も含め、健造先生宛ては、「山梨県中巨摩郡」か「中巨摩郡西条村」までです。三郎先生の時代でも「山梨県中巨摩郡昭和村」か「中巨摩郡西条新田」が多く、「中巨摩郡」は常に表記されています。この「中巨摩郡」という郡名も昭和町が、平成の大合併で単独を選択した結果、残った郡名です。「西山梨郡」に続き「東山梨郡」も消え、小渕沢町の北杜市編入で「北巨摩郡」も消滅しました。「中巨摩郡」という郡名とその歴史・風土を伝えていくのも風土伝承館杉浦醫院の使命かと・・

 甲斐の国と呼ばれた戦国時代から、甲府盆地周辺一帯を「国中(くになか)」、富士五湖方面を「郡内(ぐんない)」と呼ぶ地域区分は、現在も続いています。律令制下で、甲斐の国は、甲斐四郡に区分され、「国中」地方を「山梨郡」「巨摩郡」「八代郡」に区分し、「郡内」地方を「都留郡」としました。明治4 年(1871年)の廃藩置県で、甲斐国は、「甲府県」となり、後に現在の「山梨県」に改称されましたが、甲府県から山梨県への改称理由は不明です。一説には、「ヤマナシ」の木(写真)が多かったからとも言われていますが、県庁所在地・甲府の郡域が「西山梨郡」だったからとの説が一般的でしょう。その「山梨郡」も平成の大合併で消えてしまい、県名の話も「山があっても山梨県」程度になってしまいそうで・・・
 ちなみに、現在も耳にする県内の地域区分「山梨県中西部」「東部富士五湖」は気象情報で用いる地域区分だとか。さらに、県の出先機関、地域振興局で区分した、峡中・峡北・峡東・峡南などの行政区分による地域名もあります。しかし、歴史的にも、地理的、風土的にも「山梨郡」「巨摩郡」「八代郡」「都留郡」の甲斐四郡は、そこに暮らす人々が、それぞれの風土を形成してきた郡名なので、消えたものを伝承していくのではなく、残していくことの必要性を強く感じます。杉浦医院に下宿していた保坂忠信氏の著書にも「西八代の人々から感じる一種の物柔かさ、東山梨で感じる剛気不周、北巨摩の人々は、千古の人間経験を蓄積した地殻のような皮膚の厚さを感じる・・(省略)」(『中央線7号』三人の北巨摩人)とあります。「巨麻郡」から「巨摩郡」への変遷も含め、朝廷に貢進していたという「甲斐の黒駒」説や渡来人や高麗とのつながり説など歴史ある郡名をどう残していくのか、これは県内全ての関係機関が協議していく課題だと思うのですが・・・。

*昭和町なら、母屋部分をゆくゆく「中巨摩文化資料館」の名称で・・も可能ですね。

2010年12月18日土曜日

杉浦醫院四方山話―14 『電話』

 杉浦醫院調剤室の机には、医院で使用していた封筒類が2種類残っています。古い茶封筒には、「杉浦院」「電話(甲府)3071」と印刷されています。もう一つの「内用薬」と書かれた薬袋には、「杉浦院」で、電話も055275-3〇〇〇と現在も杉浦家が使用中の番号が記されています。これを基に純子さんに「電話」の話を伺うと、「祖父健造は、初孫でうれしかったのでしょう、親戚の錦町の市川歯科に行くとそこから必ず私に電話をしてきました。私が4、5歳だったとおもいますから、昭和5年頃には、家に電話があったことになります」 「そうそう、家に電話を引くためには、電柱を寄付しないと引けないということで、何本寄付したのかは知りませんが、電柱を寄付したと言っていました」「今は、部屋にはなっていませんが、テーブルのある部屋から屋敷蔵に行く廊下の角が、電話室でした。部屋に入って、電話機の横をぐるぐる回して、電話機に向かって話したんですよね」と(甲府)3071の思い出を話してくれました。

 取材によく来る山日新聞Y記者の実家が郵便局だと聞いていたので、「昔の郵便局は、電話局も兼ねていたようだけど」と尋ねると「いやぁー、それはないと思いますよ・・」と若い彼は知らないようなので、「お父さんに聞いて確かめておいてくれ」と頼むと、折り返し「やっていたそうです。櫛形に小笠原局があったそうです」と。中巨摩郡西条村の杉浦家が(甲府)局で(小笠原)局でないのも釜無川を越えての電話線引き込みより、甲府の方が近く、寄付する電柱も少なく済んだ為でしょうか。

 「その後、(甲府)2474に変わって、病院と母屋で切り替えが出来るようになりました」「夜、看護婦室に住み込んでいた運転手さんが、勝手に病院に切り替えて、彼女と長電話していた時、県の医学研究所でボヤがあって、職員が父に何度電話しても繋がらなかったということもありました」「昭和局30番という電話が入った時もありました。有線電話だったのか、その頃、この辺でも一斉に電話を引く家が増えました。」と、杉浦家の電話番号の遍歴とエピソードを聞くことができました。
旧甲府郵便局で、後の甲府市庁舎4号館
昭和4年7月着工 (山田守建築作品集より)
  写真の旧甲府郵便局は、日本の近代を代表する建築家山田守氏の作品です。等間隔に窓を連続させたシンプルかつ機能性重視のデザインとして建築史上に残る作品ですが、解体が決まりました。昭和4年着工ですから、杉浦医院と同じ時期の建造物で、もったいない!

2010年12月16日木曜日

杉浦醫院四方山話―13 『人間力』

 12月11日(土)に<NPOつなぐ>主催の「まちミューウォーキング」で「昭和町風土伝承館杉浦醫院見学会」が開催されました。定員30名がいっぱいになり、21日(火)にも追加回催する盛況ぶりだとか・・・ありがたい限りです。この「まちミューウォーキング」は、県内にとどまらず、上野や日の出町など東京へも広がり、<NPOつなぐ>では、その為の「ガイド・ブック」も並行して作成しています。平成25年度に山梨県で開催する文化の国体「国民文化祭」にも県内各地をくまなく歩く「やまなしフットパス構想」を提唱し、参加型の斬新なイベントとして、県との協働も進んでいるようです。
 この<つなぐ>を主宰しているのが、山本育夫さんです。山本さんは、山梨県立美術館の学芸員として、開館から関わってきた前公務員ですが、詩人としても著名ですし、現代美術の評論から美術誌の発行等多彩な活動をこなすマルチ人間です。武蔵野美術大学で、学芸員養成講座の講義も担当しながらのNPO活動です。
 県内の市町村の見どころを紹介した、山本育夫事務所発行の「やまなし再発見誌・ランデブー」は、良質な雑誌だったので、ご記憶にある方も多いことでしょう。その13号は「昭和町特集」で、山本さんの取材力と文章力がいかんなく発揮されていて、何度読み返しても感心します。この取材で、杉浦純子さんにもインタビューをしている山本さんを純子さんもよく覚えていて「あんな素敵な記事にしていただいて、恥ずかしいくらい」「ランデブーの山本さんからでは、出ない訳にいきませんね」と参加者との座談会にも応じていただきました。結城紬の着物にさっと着替えて、質問にも的確に応える純子さんを山本さんは、「杉浦医院ツアー、無事終了。改めて杉浦医院の魅力の奥深さを知りました。純子さんの語りもなかなかいい味わいを。80歳過ぎた人とは思えない凛としたたたずまいは素敵でした。」と<つなぐ>のホームページ上で報告しています。
 「杉浦醫院整備検討委員会」の副委員長もお願いしている山本さんの原点は、「新しい公共づくり」だと私は解釈しています。ヤメ公(前公務員)では、グラウンドワーク三島を牽引した都留文科大の渡辺豊博氏も同様ですが、自ら先頭で汗を流して活動の輪を広げ、「新しい公共」による地域づくりを<楽しむ>姿勢が、共通しています。柔軟かつ論理的思考で、門戸はあくまで広く・・という「人間力」に、多彩な人材や協力者が自然に集まって・・これは、科学映像館の久米川理事長にも杉浦純子さんにも共通しているなぁーと。

2010年12月12日日曜日

杉浦醫院四方山話―12 『新潟大学医学部』

 杉浦三郎先生は、甲府中学(現・甲府一高)卒業後、新潟医学専門学校医科(現・新潟大学医学部)を大正9年に卒業しました。更に、大正15年に新潟医科大学(現・新潟大学医学部)病理学教室に入り、昭和8年、博士号を取得しました。三郎先生からちょうど50年後、全く同じコース、甲府一高から新潟大学医学部へと進んだ甲州人がいました。小渕沢生まれの清水誠一氏です。
三郎先生は、医学の道を全うしましたが、清水氏は、1967年に医学部を2年で中退し、独学で美術を学び、画家になることを決意しました。10年後の1977年、「第10回パリ・ビエンナーレ」(パリ市立美術館)に「マークペインティング」を出品し、一躍、世界の注目を浴び、日本からの国費留学生としてパリに招聘されました。
 「二度と日本には戻らない」と妻と旅だったものの翌年「パリに絶望した」と帰国。同時に小渕沢へ帰郷し、「クランクペインティング」シリーズなど新たな創作を始めました。清水氏は、「芸術とは何か」という崇高な命題に真っ向取り組くむ為、己の精神の純粋さを常に保とうと孤高を自らに課す生きざまが魅力でした。当然、現実生活では大きなギャップを生じ、生まれ故郷や画壇、画廊との格闘も余儀なくされました。しかし、圧倒的な情熱で「現代の画家」たらんとする清水氏は、「何でもアリが現代美術だ」と自身を自虐的に絵画に引き摺り出したり、あらぬ物を描き込むなど、「敢えて売れない作品」を描き、近年、具象絵画を描き始めたのでした。上の作品「カッコウの巣の下で」が、私の確信では、遺作となる具象画です。「庭先でカッコウと出くわしたばっかりについにカッコウを描いちまった。」「カッコウは託卵だから、縁起も悪いし嫌われモンだ。お前のとこも娘二人だから、ウチみたいに玄関に託卵禁止の家って大きく張り出しておけ」・・・・自らに課した永遠の命題≪芸術とは何か≫への解答なのか、清水誠一氏は、突如12月5日、65歳で自死しました。昨年の昭和町タイムリー講座で、「ピカソが全てやってしまったのか」の演題で講師をお願いした折、「演題が気に入った」と応じてくれたり、フィールドワーク教室のアトリエ訪問では、「今まで、誰にも見せてなぇーけど」と母屋の和室を改造した展示室まで案内してくれたセイイッちゃん。「血液や筋肉など捨てた医学が絵に出てきて困っちもーさ」「俺の服は、全部弟のオアガリだ」「花に入れ歯を描き込んで<入れ歯な>どうだピカソ」「この絵?下ネタ半島冬景色」・・・ギャグ入り丸出し甲州弁で、口角泡飛ばしの「誠一機関銃語り」が次々蘇ります。ピカソにタイマン張った画狂・清水誠一氏の生を讃え、この場を借りて、「セイイッちゃん大往生しろ!」

2010年12月10日金曜日

杉浦醫院四方山話―11 『避雷針』

 プレ・オープン後、町外からの参観者が口々に語るのは、「ここは、森の病院だった」という記憶です。南アルプス市から弟を連れて通ったというDさんは、「ボロ電の榎で降りると向こうに森が見えて、あそこまで歩くんだよ」と弟に教えたと言います。身延線で通ったというKさんは、「常永駅で降りるとずっと先に森が見えるので、森を目指して歩きました」と。甲府から自転車で通ったというHさんも「西条の森って呼んでいました」と。杉浦醫院の屋敷一帯が森のように大きな木で囲まれていたという名残りは、現在では母屋の屋根中央にそびえ立っている避雷針でしょうか。
木造教会の避雷針

 純子さんの話では「私が物心ついた時からありました」という避雷針は、家屋や大木への落電を案じてのことでしょうが、明治中頃の建設である母屋には、最初から避雷針が付いていたのでしょうか? ウィキペディア フリー百科事典には「日本では1875年(明治8年)、金沢市にある尾山神社の楼門建設の際に設置されたものが最初である」と記載されていますから、森の中に大屋根の2階建て家屋を新築するにあたって、杉浦家が、いち早く避雷針を取り付けたとしても不思議ではありません。この「避雷針」、文字通りでは、雷を遠くに追いやって建物や樹木を守るという感じですが、実際は、雷をこの針に誘導して、落雷が起こったら避雷針から接地線を通して電流を地面に抜けさせて被害を防ぐ訳ですから、「迎雷針」が妥当のようにも思いますが・・。
 整備が始まった4月段階では、森を形成していた大きな切株が至る所にありました。一番大きな母屋西側の欅の切り株は、「15年くらい前に名古屋の材木屋さんが丸ごと買い取ってくれましたが、あの後からは、お金を出さないと切ってもらえなくなりました」「欅の芽吹きもきれいですが、私は裸木が一番好きでした」「落ち葉の苦情もあり、次々切りましたが、池の欅を切る時は、ほんとうにつらい思いをしました」と純子さん。区画整理の進む常永地区もそうですが、きれいに整備が終わると元の面影はすっかり消えてしまいます。確かに消してしまいたい過去もありますが、「杉浦醫院は森だった」という土地の記憶が、「行ってみよう」という現在につながっていることを思えば、著書『アースダイバー』で中沢新一氏が、東京の現在を洪積層、沖積層といった「地下」から考察することで、消え去った土地の記憶を蘇らせた視点は、見事というほかありません。

*杉浦醫院2階西側の窓から見る母屋の高い屋根と避雷針は壮観です

2010年12月8日水曜日

杉浦醫院四方山話―10 『モミジ』

 洋の東西を問わず、人間は庭を造り、散策やコミュニケーションの場にとどまらず、音楽や美術と同様に、そこで思索したり観想したり、時には緊張感や安らぎを得る場所として、庭を楽しんできました。この庭が持つ芸術性と社会性は、それぞれの文化が育んだ多彩な庭園として残されています。「西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、広いものを象徴できるからでありませう。勿論その不均整は、日本人の繊細微妙な感性によって釣り合ひが保たれての上であります。日本の造園ほど複雑、多趣、綿密、したがってむずかしい造園法はありません。その凝縮を極めると、日本の盆栽になり、盆石となります。」と川端康成は「美しい日本の私」のなかで述べています。
 
 先日の雨と風で、すっかり葉を落とした杉浦醫院のモミジですが、杉浦家が育んだ庭園は、このモミジを主体に造形された日本庭園で、杉浦家の文化を表象している庭でもあります。小宇宙の主役をモミジとしたことで、秋には、素晴らしい紅葉絵を見ることが出来ます。赤く染まったもみじの奥には竹林の緑を、敷き詰めたような赤い落ち葉の中には椿の緑が・・といった「繊細微妙な感性によって釣り合いが保たれ」るよう造られています。同時に、何気なく置かれたようにも見える石燈や飛び石も苔の緑を想定した「綿密」なものですし、趣がある湧水池も竹やモミジを映しています。今年、町がこの庭の剪定、移植から敷き石までトータルで整備を委託した日本庭園を専門に手がけるS氏は、「全て手彫りの石燈や池の石積み、建物と庭木の高さなどこの庭の素材と造り、趣味の高さは、個人庭園では、京都の庭にも負けない水準です」と評していました。母屋の座敷を囲む庭は、「水位が高かった頃は、苔庭で、一面緑でしたが、昭和水源が出来てから水位が下がり苔も枯れました」と残念そうに話す純子さん。「水の問題なら井戸水は十分出ているので、こまめな水やりで蘇るはずです」とS氏。今年の杉浦醫院の紅葉絵は、終わりかけていますが、四季折々の庭園が楽しめるよう、日々の手入れを重ねていきますので、乞うご期待!

*うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ(良寛)

2010年11月30日火曜日

杉浦醫院四方山話―9 『科学映像館』

 プレ・オープンに合わせて作製した、当館紹介のDVDも好評をいただいていますが、設置した52インチの液晶画面と再生装置を活かすうえでも、地方病関係の映像資料の収集と公開は欠かせません。地方病についての専門アドバイザーをお願いしている梶原徳昭先生から「地方病との闘い」や「人類の名の下に」等の過去の映像フィルムの存在は指摘されていましたが、県立博物館や県立図書館に保存されている16mmフィルムをデジタル化するには、放送局等に委託しなければならず、予算的にも厳しいものがありました。
 山日新聞の連載を機に、マスコミの取材が続きましたが、期せずして読売・朝日の両記者から「科学映像館」の話があり、そのサイトで貴重な科学映像が無料配信されていることを知りました「地方病との闘い」「日本住血吸虫」の2本は、既に配信リストに入っていました。さっそく、科学映像館を運営しているNPO法人に問い合わせると理事長の久米川氏は、唐突な電話での問い合わせにも親切かつ有意義なアドバイスを惜しまず、受話器を通して「人が生きる姿勢と価値」についても学ばせていただきました。
 大学教授を退任後、医学関係の貴重なフィルムの消滅を誰かが食い止めなければという思いから、科学フィルムのデジタル化とそれを配信する「科学映像館」の立ち上げに取り組んだそうです。「パソコンも全く出来なかったけどこれを始める必要から68歳から始めたんですよ」「私は、78歳になります。あなたはまだまだこれからです」と若々しい声で的確な内容を無駄なく語れるのも使命を全うすることへの情熱の発露と頭が下がります。
「インターネットの良いところを利用しての映像館です。3年半で、再生された映像は400万回を越えました。配信している映像も405本になりますが、まだまだI波映画はじめ壁があって配信できない映像もたくさんあります」「営利目的のNPOの壁や文化庁の壁も高いです」とご苦労をさりげなく客観的に話せるのも久米川氏の人格が醸しだす品性だろうと我が身を省みました。
 志の高い人や組織に出会えるのもインターネットの可能性の一つだと実感しましたが、配信映像も「医学・医療」関係に限らず 、「芸術・祭り・神事」や「自然」「動物」など10以上のカテゴリーを網羅しています。「中国、韓国からのアクセスも非常に多い」という科学映像館。梶原先生も「知らなかった」ということで、四方山話で周知する次第です。

久米川理事長のブログ

*久米川理事長のご協力で、上記の3種類の映像資料が収蔵出来そうです。

杉浦醫院四方山話―8 『ピアノ余話』

 昭和10年前後の「ピアノ」が、どのような位置を占めていたのか・・・「そうだ同じジュンコだ!」と昔、何度も観た映画をDVDで見直しました。新藤兼人脚本、高橋英樹主演の鈴木清順監督作品「けんかえれじい」です。製作したのは、昭和40年代ですが、映画の時代設定は、ちょうど昭和10年。清順監督が、脚本を無視して、どんどんアイデアを盛り込んだ為、新藤兼人氏が「私の脚本ではない」と怒ったと言ういわくつきの作品でもあります。あらためて清順氏の鬼才ぶりと高橋英樹の若くしなやかな肉体、思いを寄せる浅野順子の清廉な美しさ、全てまぶしくモノクロ映画の良さも確認できました。


 この映画で、マドンナ役の浅野順子が通う学校が、ミッションスクールという設定と彼女が家で弾くピアノは欠かせません。大正ロマンを引き継ぐ軟派に背を向け、旧制中学校の伝統的硬派精神を「けんか」を通してユーモラスに描き、「もっと大きなけんか(思想・政治)へ」と旅立たせる幕切れは、あの時代(1970年代)の若者への清順監督の熱いメッセージでもありました。鈴木監督が一番元気だった頃の作品「けんかえれじい」は、杉浦醫院の病院活動全盛期と合致していますので、当時の「ピアノ」の時代背景理解にも面白いかと・・・。

 杉浦醫院応接室には、ピアノと一緒に「ステレオ」もあります。スピーカーと一体型の懐かしいステレオです。中原俊監督のNHKドラマ「松ヶ枝町サーガ」では、このステレオが大切な役を演じています。この作品は、昭和初期の松ヶ枝町の日常を主人公の小学生・ツーちゃんの目を通してのドラマですが、この当時だったら実際に何処にでもありそうな風景や日常的な人間関係が、ノスタルジックかつシビアに描かれています。コーヒーを飲みながらステレオを聴きくという新生活を田舎町に持ち込んだ、岸部一徳演ずる「来たりモン」とそれを好奇心あふれる眼で覗く子どもたちが、杉浦医院のピアノ演奏に集まったFさんたちとダブります。

*2階「座学スペース」で、昭和時代の名作(?)鑑賞教室なども開催出来たらと思っています。

2010年11月26日金曜日

杉浦醫院四方山話―7 『ピアノ』

 プレ・オープンの日から始まった山日新聞紙上での「杉浦父子の思いを未来につなぐ」連載記事の2回目は、応接室のピアノの前で取材に応じる純子さんの写真と記事でした。
「純子さんのお元気な姿を見てなつかしく、今日にも見学に行きたいのですが・・」といった問い合わから「よくぞ町が残した」や「ただ保存するだけでなく、若い高校生もかかわっていくという試みが素晴らしい」というものまで、あらためて新聞報道の反響の大きさに驚いています。
今にも純子さんが弾く音色が聞こえてきそうなピアノですが、それもそのはず、純子さんとは、75年以上の付き合いにもなります。今上天皇は、昭和8年12月23日生れですが、このピアノは、皇太子誕生の祝賀記念に、日本楽器=YAMAHAが、100台限定で製作したうちの1台です。天皇は「現人神」とされていた時代ですから、皇太子の誕生は、東京中に親王生誕を知らせるサイレンが鳴り、人々は旗や提灯を持って街を行列して祝ったそうです。
ベヒシュタイン社のグランド D280。
蓋を外し上から撮影
 この記念ピアノは、家庭用グランドピアノということで、ホールにあるグランドピアノより小ぶりですが、純子さんの説明では「中はドイツ製、外が漆塗りの日本製、鍵盤は本象牙」という造りです。デザインも鶴の脚をイメージした脚で、足置はガラス製の菊の御紋です。鳳凰が舞う姿を彫った譜面台など大変手の凝ったものです。
「父が、発売と同時に甲府の内藤楽器から買ったものですが、それが大変でした。友人の小野先生が、ピアノを買ったことを聞きつけて、怒鳴り込んできたんです。」「お前は、娘を歌うたいにする気かって。そんな時代だったんですよ」と純子さんは遠くを見るように語ってくれました。
 私の記憶では、昭和30年代の甲府でも、近所でピアノがある家は数軒だったように思います。杉浦3姉妹が、ピアノに向ってお稽古を始めると近隣の子どもたちが応接室東側の窓下に集まり、「背伸びして覗いたもんだ」と近所のFさんが話してくれました。
「車もない時代だから、めずらしピアノの音は、かなり遠くまで聞こえたなあー」と。

*1階応接室に当時のままの「記念ピアノ」があります。

2010年11月16日火曜日

杉浦醫院四方山話―6 『手拭い』

 甲府市古府中町で「奈麻余美文庫」を主宰する植松光宏さんは、本だけでなく“手のぐい”(甲州弁で手ぬぐいの意)の収集家でもあります。山日新聞記事で、植松さんが1930〜50年代に作られた約70点の「手ぬぐい展」を甲府で開催していることを知り、取材に来た山日新聞のA記者に杉浦家の手ぬぐいを植松コレクションに寄進すべく託しました。

「姉さん被り」今の塵除け。後ろから持ってきた端を
上から前に廻して、額の下から差し込んでいると思われる
  手ぬぐいは、現代ではタオルにおされて、脇役の感もしますが、本来は寒暑や塵除け、祭礼における装身具として、頭にかぶる由緒正しい木綿平織りの布です。物のない時代には、汗をぬぐうだけでなくいろんな使い方をされ、縫い合わせて風呂敷や布団にまでなっていました。
 植松さんは、手ぬぐいを文化として楽しんでいるようなので、杉浦家の手ぬぐいも、杉浦家と昭和町の歴史と文化、風土を象徴していますので、純子さんの了解のもと贈りました。

 杉浦家から町に寄贈いただいた手拭いは、3種類あります。純子さんの説明では、「これは、お子様用です」という鶏を描いた手拭いと「手伝いに来てくれた方に配った大人用」が2種類です。この大人用は、2種類とも絵柄は「ホタル」です。白地に紺染めで川と草木を配し、3匹のホタルが黄色く発光しながら舞うシンプルかつ絶妙なデザインの絵柄に「ホタルの里 杉浦」の文字がさりげなく入っています。この文字も「何という書家の字ですか?」と聞いたほど味わい深い字ですが、「これは 母の字です。私は全然ダメですが、母は奇麗な字を書きました」と、必ず自分のことはへりくだる「能ある鷹の爪の隠し過ぎ」が純子さんです。
3種類とも反物で注文してあり、その都度人数分切り分けて渡していました。「うちの手ぬぐいは、ちょっと大きめなので使い勝手が良いと評判でした」と言うとおり、長さが一般的なものよりずっと長めです。子ども用も用意してあったということは、子どもも当時は、一定の年齢になれば労働力として手伝いに来ていたのではないかと思いますが、赤い鶏の絵柄から、豆絞りにもなるので、この地域一帯の子どもの名付け親として、杉浦家が、お祭りなどの折に子どもたちへのプレゼント用に作ったものでしょう。

*大人用2種類の「ホタルの里杉浦」手拭いは、1階洗面室の源氏ホタル紹介コーナーに展示中。

杉浦醫院四方山話―5 『まりつき』


 「そうそう、すっかり忘れていましたが、学校に入る前だったと思います。あそこで、まりつきをした覚えがあります。」と純子さんの明晰な記憶がまた一つ蘇りました。
過日、文化庁文化財参事官(建造部担当)付・主任文化財調査官(登録部門)という長い肩書のK氏が、杉浦醫院の視察に訪れました。杉浦醫院を国の有形登録文化財に申請するにあったての事前視察です。早川町から市川三郷町を経て、昭和町へと、この日県内3件目の視察でした。

ゴムまり以前の手鞠
 「ちょっとコワい感じの人でしたね」と純子さんが言うように体も顔も・・・もみんな大きな人でしたが、その体躯に似合わず「これ、醫院長室あらへん」といった関西弁とのギャップが、面白い人でした。  そのK氏が旧医院内を視察中、醫院長室で足を止め、柱や鴨居に触ったり、懐中電灯を取り出してあれこれ詳細に眺め、出した結論が≪これは、あとから部屋にしたもので、最初は玄関か出入り口だったのでは≫というものでした。≪看護婦室が6畳あるのに醫院長室がこの狭さということはありえない≫≪醫院長は、本や調度品に囲まれた部屋にいるのが一般的。応接室か2階が醫院長室だったと思う≫と云った内容を関西弁で指摘されました。「なるほど」と思いましたが、東西南北全て窓、前庭には、清謂寿碑がそびえ立つ南向きの明るい部屋で、大好きな煙草を愉しむには、もってこいの部屋」と私には思え、疑いもしませんでした。「長女の方に確認しておきます」とその場はやり過ごし、帰った後、純子さんに聞くと「下がコンクリートで、まりつきをしたんだから、確かに最初は醫院長室ではなかった」そうで、調査官K氏の指摘どおりでした。
 「まりつき」もすっかり見かけなくなりましたが、言葉の響きと共に覚えやすくリズミカルな歌がなつかしく「まりつき歌は、<あんたがたどこさ>でしたか?」「私は、てんてんてんまり てんてまりっていう・・」「あっ、<まりと殿様>ですね」といった「まりつき歌」談議になりました。歌いながらゴムまりをつき、最後は、お尻とスカートでまりをおさめて終わる女の子の遊びをチャンバラなぞしながら眺めては「何だか男の遊びは情けねぇーなー」と思った少年時代の思いと女の子へのあこがれをK氏と純子さんが呼び起こしてくれた視察でもありました。

*屋外から基礎をたどっていくと確かに醫院長室の下だけコンクリートタタキ跡が残っています。

2010年11月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―4 『寄生虫列車』

 廃線や消えゆく電車をカメラに収めようという鉄道ファンが話題になっていますが、その「鉄っちゃん」「鉄女」も知らないであろう列車が、かつて甲府駅にありました。人呼んで「寄生虫列車」です。
敗戦後、進駐した占領軍は、RAILWAY TRANSPORTATION OFFICEという名前の鉄道運輸司令部を置き、占領軍専用列車とダイヤを組み、将兵たちは公用、私用でこれを使って日本国内を移動していました。すし詰めの買い出し列車や窓の破れた電車で圧死者も相次いでいたのが当時の日本の鉄道状況ですから、日本人を尻目に「優雅」で「快適」な移動も勝者の常だったのでしょう。
 
この「寄生虫列車」は、杉浦醫院なくして甲府駅に常駐することはなかった列車です。
寝台車、食堂車、サロン車はもとより研究室車両や事務室車両からなる「長い列車だった」といいます。フィリッピンなどを占領したアメリカの将兵が、現地で寄生虫の感染症に悩まされていたことから、進駐軍は、アメリカの医者や研究者を杉浦医院で研修させ、日本住血吸虫症などの寄生虫病の研究をこの列車内で行ったのでした。
進駐軍鉄道運輸司令部が、研究用に特別列車を仕立て、甲府駅に常駐させて、地方病研究の先駆者杉浦健造・三郎父子の杉浦医院に指導を乞うたのです。目的に応じて、移動も寝泊まりも食事も研究も・・「快適」にできる自前の施設を列車で造り、必要期間、駅に常駐させたというアメリカ合理主義の象徴的な列車ですが、甲府を始め、全国の主要な都市は、空襲で焼け野原だったわけで、満足なホテルや旅館もないことからすれば、素早い対応策でもあり、これも勝者の「余裕」といった感じです。
 この「寄生虫列車」での研究には、杉浦三郎氏の三女・三和子さんや山梨県立医学研究所の飯島利彦氏、慶応大学の大島ゆりさんらも加わり、日米の共同研究で大きな成果を残し、地方病終息へ大きく貢献しました。
西条新田からこの「寄生虫列車」に通っていた三和子さんは、「食堂車では、スープや洋食のハイカラな食事を食べていたようです」と姉の純子さんが楽しそうに思い出していました。

*飯島利彦著「ミヤイリガイ」(昭和40年山梨寄生虫予防会刊)が2階展示コーナーにあります。
*「寄生虫列車」の詳細を記録した宇野善康著「イノベーション開発・普及過程」も展示中。

杉浦醫院四方山話―3 『進駐軍』

 平成15年度の昭和町タイムリー講座は『歴史家・色川大吉氏が昭和で語りおろす=日記・自分史でひもとく現代史連続講座=全8回』でした。
アメリカが、イラン・イラク戦争後のイラン国内での反米運動の盛り上がりに手を焼いていた時でした。
色川先生は、「現在のアメリカには、ベトナムでもイランでも終戦後までを見通しての余裕がない。
東西ドイツや南北朝鮮のように分断されなかった日本の戦後は、アメリカが、こんなところまでという位、ち密な情報収集と降伏後の日本の統治政策を研究していたことにつきる」と指摘していたのを思い出しました。
ッカーサー最高司令官を訪問した昭和天皇
1945年(昭和20年)9月27撮影
 左の写真は、終戦の年の9月27日に昭和天皇が、マッカーサーを訪問した時のものです。これよりちょうど1カ月前の8月27日、米軍所属の医学者マクマレン・ライト・オリバーの3博士が昭和町の杉浦医院に三郎博士を訪問して、寄生虫病の治療・予防についての指導を要請しているのです。8月15日の終戦の日から、わずか12日後のことです。
 当然、「徹底抗戦」を唱える日本軍も各地に残留し、一般国民も「鬼畜米英」のマインドコントロール下、米軍の進駐を不安に思っていた極めて不安定な情勢の中での訪問は、色川先生の指摘どおり、終戦前からの周到な調査と準備により、計画されていた訪問だったのでしょう。 この訪問を機に東京に本部を置く進駐軍の「406医学総合研究所」と杉浦医院の共同研究や研修医の受け入れが始まり、杉浦医院には、アメリカ人医師が入れ替わりで泊まり込み、三郎先生から治療法を学んでいったのです。
 現在も医院玄関左側には「英字看板」が残り、アメリカ人研修医受け入れのために改装した1階北側のタイル張りの「洗面所」が、当時の面影を残しています。
 この杉浦医院で学んだアメリカ人医師が、後に家族を連れて杉浦家を訪問したり、手紙や写真の交換など、家族ぐるみの交流が続いていました。杉浦家は、戦後の日米友好を築いた民間国際交流の草分け的存在といっても過言ではありません。

*杉浦家に贈られた「406医学総合研究所」の法被が、1階展示コーナーにあります。
*杉浦家に届いた数多くの「エア・メール」も展示中です。

2010年10月27日水曜日

杉浦醫院四方山話―2 『煙草』

 先日、囲碁界で当代一の実力を誇り、ずば抜けた実績を残した二十三世本因坊の坂田栄男氏が90歳で亡くなった。「カミソリの坂田」といわれたように切れ味鋭い碁風と飾らない性格が多くのファンを魅了し続けた。同時に煙草好きとしても有名で、くわえ煙草での対局は、「対局モラル」としても話題になった。                                 煙草と言えば、杉浦三郎先生もチェーンスモーカーだったそうです。医院長室の机には、何種類もの灰皿がゴロゴロあり、愛用のシガレット・ケースも保存されています。患者さんから「先生は煙草を止めた方がいいじゃない?」と言われても「煙草は医者にはいいのだ」と開き直っていたと笑い話で純子さんが語ってくれました。「病気は、医者が治すんじゃない、本人が治すんで、医者はそのほんの手伝いをしているだけだ」が、三郎先生の口癖だったそうです。アメリカ発の「禁煙(ファシズム付ける識者もいる)運動」ですが、煙草は元々アメリカが発生地で、神への供物として欠かせなかったばかりか、病気は体に宿った悪霊を追い払うことで回復すると紫煙は治療にも利用されていたといいますから、三郎先生の愛煙の弁にも理があります。
日本でも禁煙の嵐はますます・・で、愛煙家は、ひたすら「しのぎの坂田」で行くしかありませんが、「煙草屋の看板娘」と言う言葉も生まれたように煙草に由来する文化的側面や習俗は否定できません。「きざみ煙草にキセル」といってもピンとこない日本人が多くなると「古典落語」の名場面も理解不能になります。コレクターが世界に広がったヨーロッパのパイプ文化も素材や技法の歴史や名工の作品など奥深い「文化」を内蔵しています。
煙草を止めない人は意志が弱いかのように言われていますが、煙草がどんなに悪者にされても吸い続ける方が意志は強いのだと、マーク・トウェーンは次のような名言を残しています。
「煙草をやめるなんてとても簡単なことだ。私は百回以上も禁煙している」
三郎先生は、正真正銘「強い医師」だったと言えますね。

*醫院長室に三郎先生が愛用したシガレットケースと灰皿が展示してあります。

杉浦醫院四方山話―1 『ダットサン』

昭和町で最初に自家用車を購入したのは、杉浦三郎先生のようです。
健造先生は、人力車で往診していましたが、夜の急患を診た帰り道、当時の夜道は真っ暗なうえに舗装されていないデコボコ道だったことから、人力車がひっくり返り、健造先生は投げ出され、大怪我をし、この事故が元で・・・・。
三郎先生は、運転しての往診では、診察に集中出来ないと考え、免許は取らずに運転手に任せていました。現在、私たちが事務室として使っている「看護婦室」が、夜は運転手の「宿泊室」を兼ねた6畳間でした。
 三郎先生が購入した「ダットサン」は、黒塗りで、日本の「ものづくり力」を象徴したデザインは、今も斬新で美しく、特にヒップが上品です。 押原小学校の校医として、学校検診にもダットサンで来たことをよく覚えている築地のNさんは、「運転手が、毛叩きでいつも磨いていたのでピカピカだった」「触るとビリビリしびれた」と昨日のことのように話してくれました。自動車がめずらしい時らこそ記憶も鮮明なのでしょう。
「ダットサン」は、「プリンス」と並ぶ、かつては日産自動車を代表する商標の1つでしたが、1981年に「日産」に一本化されたため、化石化しつつあるブランドです。「プリンス」といえば「スカイライン」、「ダットサン」といえば「ブルーバード」ですが、「ダットラ」の愛称で、今でもマニアに人気の「ダットサントラック」が、押越の清水米穀店で健在です。現役で活躍している「ダットラ」の持ち主・清水裕さんは、健造先生の功績を讃える「頌徳歌」を3番までスラスラ歌える方ですが、車にも「温故知新」の姿勢が屹立しています。
自動車は、数千パーツの部品から出来ていることから「その時代の流行や産業力の総体」を丸ごと醸してくれるように思います。河口湖に「自動車博物館」があるように、現存する古い車を「文化遺産」として保存していくことも意味あることだと思います。

*館内にダットサンと共に健造・三郎父子が正装しての記念写真が展示してあります。