木造教会の避雷針 |
純子さんの話では「私が物心ついた時からありました」という避雷針は、家屋や大木への落電を案じてのことでしょうが、明治中頃の建設である母屋には、最初から避雷針が付いていたのでしょうか? ウィキペディア フリー百科事典には「日本では1875年(明治8年)、金沢市にある尾山神社の楼門建設の際に設置されたものが最初である」と記載されていますから、森の中に大屋根の2階建て家屋を新築するにあたって、杉浦家が、いち早く避雷針を取り付けたとしても不思議ではありません。この「避雷針」、文字通りでは、雷を遠くに追いやって建物や樹木を守るという感じですが、実際は、雷をこの針に誘導して、落雷が起こったら避雷針から接地線を通して電流を地面に抜けさせて被害を防ぐ訳ですから、「迎雷針」が妥当のようにも思いますが・・。
整備が始まった4月段階では、森を形成していた大きな切株が至る所にありました。一番大きな母屋西側の欅の切り株は、「15年くらい前に名古屋の材木屋さんが丸ごと買い取ってくれましたが、あの後からは、お金を出さないと切ってもらえなくなりました」「欅の芽吹きもきれいですが、私は裸木が一番好きでした」「落ち葉の苦情もあり、次々切りましたが、池の欅を切る時は、ほんとうにつらい思いをしました」と純子さん。区画整理の進む常永地区もそうですが、きれいに整備が終わると元の面影はすっかり消えてしまいます。確かに消してしまいたい過去もありますが、「杉浦醫院は森だった」という土地の記憶が、「行ってみよう」という現在につながっていることを思えば、著書『アースダイバー』で中沢新一氏が、東京の現在を洪積層、沖積層といった「地下」から考察することで、消え去った土地の記憶を蘇らせた視点は、見事というほかありません。