2016年10月27日木曜日

杉浦醫院四方山話―487『杉浦醫院11代目・杉浦修氏』


  東京目黒にある学芸大ファミリークリニックが、10代目杉浦健一氏の長男・修氏が開院している医院です。杉浦醫院の医者の系譜としては、修氏が11代目にあたります。

「このクリニックは一般に思い浮かべる病院とはひと味もふた味も変わっている」そうです。

 修先生は、白衣ではなくカラフルでラフなシャツ姿で診療に当たり、スタッフもそれぞれバラバラの服を身に着け、院内には先生の好きなアメリカンフットボールの用具が飾られるなど、従来のイメージを一新する病院で、随所に先生の個性と交友の広さが光っているようです。

例えば、上記赤字のリンクをクリックすると楽しいホームページに入れますが、この斬新なトップページも先生の知人・友人で著名なクリエイターの手によるものです。また、歩いている人をクリックすると「土日・祝日も診療しているよ」とか「夜も20時まで・・・」と、診療案内が表示されるというユニークで親しみやすいものです。


 「土日祝日も休みなし、診察時間も夜8時まで」と聞けば、それなりの人数の医師がいて・・・と思いますが、「医者は、私一人です」と云いますから驚きです。

「私の医院は、電柱や街頭に看板を出したりの広告活動は一切していません。クチコミの患者さんが中心です。医者が偉いなんて思ったこともないので、患者さんには私の携帯番号も知らせ、何かあったらいつでも連絡が取れるようにしています。」と・・・


 更に「社会という階層構造のなかで、医者は最下層で人々の健康をバックアップすべき」とか「すべての患者は自分の家族であるという想いで診療に当たっている」と云った言葉からは、杉浦家に脈々と伝わるDNAを感じます。

それは、曾祖父・健造氏の信条「医は仁術である」の具体化ですし、開業医をしながら県立医学研究所地方病部長として予防の先頭に立った祖父・三郎氏。父・健一氏も敢えて医官と云う厳しい選択をしたように「人はパンのみにて生くる者に非ず」を自然に想起させてくれますから、学芸大ファミリークリニックは、杉浦修医院長の人生哲学を体現しているのでしょう。

「ここには、小学生の頃に父に連れられて何度か来ました。父があの若さで亡くなったりで、それ以来ですが、部屋も一つ一つよく覚えています。

それにしても隣のお寺もきれいになったり、新しい道や周りにこんなに家が建ちすっかり変わって、道も分からなくなって何度か聞いて来ました」と、約20年ぶりの純子さんとの再会も叶いました。

純子さんも「おさむちゃん、私はもうこんなだから又来てくれるなら早く来てくれないといませんよ」と冗談も交えての旧交を温めました。

楽しい会話の中でも時折、目頭を押さえての涙に甥っ子との再会に感無量な純子さんの想いが滲んでいました。カメラを向けると自然に肩を寄せ合う、家族・親族ならではの一枚となりました。

2016年10月17日月曜日

杉浦醫院四方山話―486『山梨医専・女子医専』

 山梨医専は、山梨県立医学専門学校、同じく女子医専は山梨県立女子医学専門学校の略称ですが、現・山梨大学医学部とは関係無い、かつて県内にあった医学校です。

 

 これは、1944年(昭和19年)の第二次世界大戦末期に不足する軍医を速成する必要から国策として全国に設立された「旧制医学専門学校」=「医専」の山梨版ですが、兵士として男性は出征していきましたから、学校を維持する為にも、翌年には山梨県立女子医学専門学校を併設しました。

しかし、昭和20年7月には「七夕空襲」とも呼ばれている甲府大空襲で甲府は焼け野原と化しましたから、この学校も校舎や設備、附属医院も焼失し、当時の県の財政状況からは復興もかなわず、1947年(昭和22年)に廃校となった幻の医学校でもあります。

 この県立医専の設置の為に県が国に申請した設置理由は、先ずは軍医養成の国策に応える為、次に 県内にある45%の無医村の解消、そして地方病の治療と撲滅の3点をでしたから、県民の期待も多きかったことでしょう。


 この山梨女子医専には、純子さんの妹・郁子さんが合格し、医者を目指して学んでいましたから、前話の健一さんだけでなく次女の郁子さんも三郎先生の後継たらんと云う志を持っていたのでしょう。

上記のようにこの学校は卒業する前に廃校となる中、郁子さんのような在校生は、現・山梨大学等に編入され、医学を継続して学ぶ場を失った訳で、設立から廃校まで全て戦争に翻弄された学校であり世代だったことを物語っています。


 現在の山梨大学医学部の前身・山梨医科大学が設立されたのは、山梨医専廃校後約30年を経ってからの昭和53年ですから、山梨の地方病撲滅の為の医師養成や医学的取り組みは、共立病院の加茂悦爾先生、市立病院の故・林正高先生のようにお隣の信州大学医学部出身者が中心になりました。九州の有病地帯であった筑後川流域の日本住血吸虫症対策の指揮を執ったのは久留米大学医学部だったそうですから、山梨医専や女子医専が存続していたならば、この学校が山梨の地方病対策の拠点になっていたことでしょう。


  郁子さんのように医者を志して入学するも中途で物理的に進路変更を余儀なくされた方の思いを聴いてみたいと云う個人的興味も募りますが、限られた人数だったのに加え、ご高齢なだけに物故された方も多いのが現実です。

 その一人が、昭和町上河東にあった「宮崎医院」の故・宮崎誠氏で、医専廃校に伴い当時の山梨師範へ編入して小学校教員をしていましたが、現役時代も晩年も他の教員OBとは一線を画した雰囲気と断念からくるのか?ニヒルな言動が魅力でした。

同じように塩山市出身の俳優・土屋嘉男氏も山梨医専で学んだ後、俳優の道へと進んだ方ですが、黒沢映画の名脇役としてまた異色の俳優としての活躍は、代えがたい存在感ある男優として映画ファンにはおなじみですね。

2016年10月13日木曜日

杉浦醫院四方山話―485『杉浦醫院10代目・杉浦健一氏』

 杉浦家は、初代・杉浦覚道氏が、江戸時代初め医業を創めてから7代目杉浦嘉七郎氏まで、代々絶えることなくこの地で漢方医として医業を営んできましたが、8代目杉浦健造氏は、いち早く西洋医学を学ぶため横浜野毛の小沢良斎氏の門をたたき、この地に戻って地方病の原因究明に立ち上がりました。

それは、横浜での8年間の修業時代に山梨で原因不明の奇病「水腫腸満」「腹張り」と呼ばれていた患者が、横浜には全くいないことを体験したことから、この奇病は山梨特有の風土病ではないか?と、その原因究明に立ち上がったと云います。

そして、父の遺志を継承した9代目三郎氏が、この病気の治療法を確立し、予防の先頭に立ったことなどは、当ブログでも紹介してきました。


 当館見学者からよく聞かれる疑問の一つに「9代も続いたこの病院は、跡継ぎはいなかったのですか?」と云う素朴な質問があります。「まあ、結果的にはこの地での開院は三郎先生までになります」と答えていましたが、10代目・杉浦健一医師について、長男で11代目に当たる杉浦修医師からも「じゃんじゃん書いて構いませんから」との承諾をいただきましたので、分かっている範囲ですが、先ずは10代目・杉浦健一医師についてご紹介します。

 

 三郎先生には、純子さん、郁子さん、三和子さん、健一さんの順で四人のお子さんがいました。

長女・純子さんは東大の岩井通医師と結婚しましたが、当ブログ杉浦醫院四方山話―36 『純子さんの被爆追体験』と杉浦醫院四方山話―177 『イワイ トホル ノートブック』 に記したとおり不運な死別を余儀なくされ、帰郷し現在に至っています。そういう意味では、10代目は純子さんになる訳ですが、医業に限れば健一氏が三郎氏の跡継ぎとなり、杉浦家の医業は健一氏から修氏に引き継がれていますから11代続いているのが現在です。


 末っ子の長男・健一氏は、甲府一高から昭和大学に進み、自衛隊中央病院で医官(いかん)となりましたから、幹部自衛官でもあった訳です。

 純子さんも「健一は自衛隊の病院でしたから、三島由紀夫が切腹した時や日航機が御巣鷹山に落ちた時などは、テレビにも出て忙しかったようです」とか「父も健一は帰れないものと思っていたようです」と話してくれましたが、医官養成の防衛医大が開校されるずっと前ですから、健一氏が民間の勤務医でなく自衛隊中央病院の医師を選択するには、大きな使命感と相当の覚悟が必要だったことは想像に難くありません。


  純子さんの話を裏付けるように平成24年(2012)11月12日(月曜日)発刊の三島由紀夫研究会のメルマガ会報『三島由紀夫の総合研究』通巻第695号にも杉浦健一氏の活躍が報じられています。 


 ≪ 市ヶ谷駐屯地医務室には外科医師がいなかった。東京女子医大病院と慶応病院には近いが、医官・杉浦健一2佐は、中央病院が丁度外科手術日だったので、手術 準備が整っている同病院に緊急患者を全員受け入れるように交渉し、次々と送り込んだ。≫

≪私はそのまま診察台にうつ伏せになった。医官の杉浦健一2佐が「おい、ハサミ」と言っているので、「服なら自分で脱ぎます」と私が言った途端、「黙れ」と一喝された。杉浦2佐は川名1佐に向かって「黙らせないと危ない」と言った。ここには内科医しかいないので、他の病院へ搬送されるらしいが、「出血多量で時間の勝負だ」 という話が聞こえてくる。東京女子医大病院や慶応病院が距離的には近いが、手術準備の消毒だけでも30分はかかる。自衛隊中央病院は当日は手術日であり、 他の手術を延ばして最優先で受け入れるよう調整したという。「あとは輸送時間が問題だ」「出血多量で五分五分」という電話でのやりとりの声も聞こえてく る。≫


  杉浦健一氏は、自衛隊中央病院を定年退職して柏市の総合病院で医院長在職中、享年64歳で亡くなりました。健造先生が村長在職中、村葬で送られたように健一氏も病院葬だったそうですが、自衛隊医官として最後は1佐(大佐)だったでしょうから、隊友を送る荘厳な葬儀様式も加わった大葬儀だったことも容易に想像されます。

2016年10月6日木曜日

杉浦醫院四方山話―483 『林正高先生 ありがとうございました』

 杉浦三郎先生亡き後、山梨の地方病の治療から研究と対策を担ってきた林正高先生が、先月81歳で亡くなりました。葬儀では朝比奈豊・毎日新聞社会長が「最先端の医療でフィリピンの人たちを助けた、日本の良い時代の、偉大な方の一人だったと思います」と別れを惜しんだことも報道されています。

 

 今年、先生から戴いた年賀状でも昨年夏、診察中に心肺停止の発作を起こし山梨大学で弁置換術と佳動脈バイパス術を受け、「超高齢にもかかわらず副症状の合併もなく過ぎました」と大病されたことが記され、手書きで「無事生還しました。本年もよろしくお願い致します」と書き添えられていました。

当館が地方病終息20周年の今年、「地方病流行20周年記念講座」の開設を計画し、林先生と加茂先生には、そのメイン講師をお願いした折も「涼しい時期が、私も参加者もいいですね」とおっしゃっていただきましたので、そろそろ具体化について連絡しようと思っていた矢先の訃報でした。



 山梨の地方病が一段落着くと林先生は、この病気が猛威を振るっていたフィリピンの患者救済に立ち上がり、多くの患者の命を救ってきたことは、ご存知のとおりです。

 当館開館に際しても協力を惜しまず、多くの資料も先生からご提供いただきましたが、その中には医学資料のみならず、作家・大岡昇平氏の代表作「レイテ戦記」の記載不備を指摘し、その後大岡氏と何回かの協議をもって、大岡氏が「レイテ戦記補遺」を発表した経緯など文学史料とも云うべき資料もあり、林先生のフィールドの広さと日本住血吸虫症の正確かつ深い考察姿勢は屹立していました。その辺の詳細は、以下のブログでお確かめください。


杉浦醫院四方山話―408 『地方病研究者・林正高先生』

杉浦醫院四方山話―416『なぜ出せない安全宣言~日本住血吸虫病はいま~』

杉浦醫院四方山話―422『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー1』

杉浦醫院四方山話―423『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー2』

杉浦醫院四方山話―424『大岡昇平「レイテ戦記」と補遺ー3』

杉浦醫院四方山話―427『林正高著・寄生虫との百年戦争』1

杉浦醫院四方山話―428『林正高著・寄生虫との百年戦争』2

杉浦醫院四方山話―429『林正高著・寄生虫との百年戦争』3

杉浦醫院四方山話―440 『長寿村・棡原(ゆずりはら)』

杉浦醫院四方山話―464 林正高著『日本住血吸虫症』


416話の「なぜ出せない安全宣言」は、林先生が出演したNHK甲府放送局制作の映像資料の紹介ですが、番組最後に「山梨県には、この地方病を伝えていく資料館が是非必要です。一日も早く資料館が出来るといいですね」と結んでいましたから、当館の開館を最も喜んでくださったのも林先生だったように思います。

 林先生のこれまでのご指導、ご協力に深謝し、より充実した資料館となるよう努めることをお誓いし、先生とのお別れといたします。ありがとうございました。