2016年10月17日月曜日

杉浦醫院四方山話―486『山梨医専・女子医専』

 山梨医専は、山梨県立医学専門学校、同じく女子医専は山梨県立女子医学専門学校の略称ですが、現・山梨大学医学部とは関係無い、かつて県内にあった医学校です。

 

 これは、1944年(昭和19年)の第二次世界大戦末期に不足する軍医を速成する必要から国策として全国に設立された「旧制医学専門学校」=「医専」の山梨版ですが、兵士として男性は出征していきましたから、学校を維持する為にも、翌年には山梨県立女子医学専門学校を併設しました。

しかし、昭和20年7月には「七夕空襲」とも呼ばれている甲府大空襲で甲府は焼け野原と化しましたから、この学校も校舎や設備、附属医院も焼失し、当時の県の財政状況からは復興もかなわず、1947年(昭和22年)に廃校となった幻の医学校でもあります。

 この県立医専の設置の為に県が国に申請した設置理由は、先ずは軍医養成の国策に応える為、次に 県内にある45%の無医村の解消、そして地方病の治療と撲滅の3点をでしたから、県民の期待も多きかったことでしょう。


 この山梨女子医専には、純子さんの妹・郁子さんが合格し、医者を目指して学んでいましたから、前話の健一さんだけでなく次女の郁子さんも三郎先生の後継たらんと云う志を持っていたのでしょう。

上記のようにこの学校は卒業する前に廃校となる中、郁子さんのような在校生は、現・山梨大学等に編入され、医学を継続して学ぶ場を失った訳で、設立から廃校まで全て戦争に翻弄された学校であり世代だったことを物語っています。


 現在の山梨大学医学部の前身・山梨医科大学が設立されたのは、山梨医専廃校後約30年を経ってからの昭和53年ですから、山梨の地方病撲滅の為の医師養成や医学的取り組みは、共立病院の加茂悦爾先生、市立病院の故・林正高先生のようにお隣の信州大学医学部出身者が中心になりました。九州の有病地帯であった筑後川流域の日本住血吸虫症対策の指揮を執ったのは久留米大学医学部だったそうですから、山梨医専や女子医専が存続していたならば、この学校が山梨の地方病対策の拠点になっていたことでしょう。


  郁子さんのように医者を志して入学するも中途で物理的に進路変更を余儀なくされた方の思いを聴いてみたいと云う個人的興味も募りますが、限られた人数だったのに加え、ご高齢なだけに物故された方も多いのが現実です。

 その一人が、昭和町上河東にあった「宮崎医院」の故・宮崎誠氏で、医専廃校に伴い当時の山梨師範へ編入して小学校教員をしていましたが、現役時代も晩年も他の教員OBとは一線を画した雰囲気と断念からくるのか?ニヒルな言動が魅力でした。

同じように塩山市出身の俳優・土屋嘉男氏も山梨医専で学んだ後、俳優の道へと進んだ方ですが、黒沢映画の名脇役としてまた異色の俳優としての活躍は、代えがたい存在感ある男優として映画ファンにはおなじみですね。