杉浦醫院四方山話―485『杉浦醫院10代目・杉浦健一氏』
杉浦家は、初代・杉浦覚道氏が、江戸時代初め医業を創めてから7代目杉浦嘉七郎氏まで、代々絶えることなくこの地で漢方医として医業を営んできましたが、8代目杉浦健造氏は、いち早く西洋医学を学ぶため横浜野毛の小沢良斎氏の門をたたき、この地に戻って地方病の原因究明に立ち上がりました。
それは、横浜での8年間の修業時代に山梨で原因不明の奇病「水腫腸満」「腹張り」と呼ばれていた患者が、横浜には全くいないことを体験したことから、この奇病は山梨特有の風土病ではないか?と、その原因究明に立ち上がったと云います。
そして、父の遺志を継承した9代目三郎氏が、この病気の治療法を確立し、予防の先頭に立ったことなどは、当ブログでも紹介してきました。
当館見学者からよく聞かれる疑問の一つに「9代も続いたこの病院は、跡継ぎはいなかったのですか?」と云う素朴な質問があります。「まあ、結果的にはこの地での開院は三郎先生までになります」と答えていましたが、10代目・杉浦健一医師について、長男で11代目に当たる杉浦修医師からも「じゃんじゃん書いて構いませんから」との承諾をいただきましたので、分かっている範囲ですが、先ずは10代目・杉浦健一医師についてご紹介します。
三郎先生には、純子さん、郁子さん、三和子さん、健一さんの順で四人のお子さんがいました。
長女・純子さんは東大の岩井通医師と結婚しましたが、当ブログ杉浦醫院四方山話―36 『純子さんの被爆追体験』と杉浦醫院四方山話―177 『イワイ トホル ノートブック』 に記したとおり不運な死別を余儀なくされ、帰郷し現在に至っています。そういう意味では、10代目は純子さんになる訳ですが、医業に限れば健一氏が三郎氏の跡継ぎとなり、杉浦家の医業は健一氏から修氏に引き継がれていますから11代続いているのが現在です。
末っ子の長男・健一氏は、甲府一高から昭和大学に進み、自衛隊中央病院で医官(いかん)となりましたから、幹部自衛官でもあった訳です。
純子さんも「健一は自衛隊の病院でしたから、三島由紀夫が切腹した時や日航機が御巣鷹山に落ちた時などは、テレビにも出て忙しかったようです」とか「父も健一は帰れないものと思っていたようです」と話してくれましたが、医官養成の防衛医大が開校されるずっと前ですから、健一氏が民間の勤務医でなく自衛隊中央病院の医師を選択するには、大きな使命感と相当の覚悟が必要だったことは想像に難くありません。
純子さんの話を裏付けるように平成24年(2012)11月12日(月曜日)発刊の三島由紀夫研究会のメルマガ会報『三島由紀夫の総合研究』通巻第695号にも杉浦健一氏の活躍が報じられています。
≪ 市ヶ谷駐屯地医務室には外科医師がいなかった。東京女子医大病院と慶応病院には近いが、医官・杉浦健一2佐は、中央病院が丁度外科手術日だったので、手術 準備が整っている同病院に緊急患者を全員受け入れるように交渉し、次々と送り込んだ。≫
≪私はそのまま診察台にうつ伏せになった。医官の杉浦健一2佐が「おい、ハサミ」と言っているので、「服なら自分で脱ぎます」と私が言った途端、「黙れ」と一喝された。杉浦2佐は川名1佐に向かって「黙らせないと危ない」と言った。ここには内科医しかいないので、他の病院へ搬送されるらしいが、「出血多量で時間の勝負だ」 という話が聞こえてくる。東京女子医大病院や慶応病院が距離的には近いが、手術準備の消毒だけでも30分はかかる。自衛隊中央病院は当日は手術日であり、 他の手術を延ばして最優先で受け入れるよう調整したという。「あとは輸送時間が問題だ」「出血多量で五分五分」という電話でのやりとりの声も聞こえてく る。≫
杉浦健一氏は、自衛隊中央病院を定年退職して柏市の総合病院で医院長在職中、享年64歳で亡くなりました。健造先生が村長在職中、村葬で送られたように健一氏も病院葬だったそうですが、自衛隊医官として最後は1佐(大佐)だったでしょうから、隊友を送る荘厳な葬儀様式も加わった大葬儀だったことも容易に想像されます。