2020年2月26日水曜日

杉浦醫院四方山話―607『お忘れ物・雑感』

 当館のように不特定多数の来館者を前提とした施設では、来館者が持参した物を忘れることがあります。その「お忘れ物」に付随した物語もあったりして面白いのですが、中には「何処で忘れたのか?落としたのか?」と、お困りの方もいることと思います。

 近々では、県外から1人で来館くださったあの男性では?と予想は付きますが、来館時に住所・氏名まで伺う事はありませんから、こちらから連絡することは出来ない忘れ物もあります。

2階に置き忘れてあった直近の忘れ物「キャノンの交換レンズ」です。
 

 当館では、人数に関係なく来館者の希望で山梨県の地方病と杉浦父子についてガイド付き案内をしています。その方も「せっかくですからガイド付きでお願いします」と云う事で、約1時間案内しながら話しました。予備知識も豊富で本格的なカメラも持参していましたので「この後は、2階で映像もご自由にご覧いただけますし、写真撮影もどうぞ」と自由見学に切り替えました。


 自由見学時に共通するのは時折「カシャ・カシャ」とシャッター音が聞こえてくる位で、皆さん足音も立てず「静かにじっくり」ご覧いただいていることでしょうか。

 

 これは性格にもよるのでしょう、事務室に居る私たちに声掛けして帰る方、玄関のピンポンでお帰りが分かる方、報知器の反応を回避するように帰ったのか、全く知らない間にお帰りになる方と・・・来館者も様々ですが、中には後日、案内の感想や撮影した写真を個人的にブログやyouーtubeにアップして発信してくださる方も居て、それを観て来館したと云う方もいますのでありがたい方々でもあります。


 そんな訳で、来館者の忘れ物、落とし物を当館で保管していますので、お心当たりのある方は☎055-275-1400(杉浦醫院)まで連絡下さい。


 余談ですが、以前、西条小学校の児童が団体で見学に来た折、庭園内に小さなエンピツが一本落ちていたことがありました。エンピツには記名もされていましたから、近く学校に行く用事があったので持って行こうと話していました。

その日の夕方、お母さんと児童が来て「今日見学に来た西条小学校の2年生ですが、鉛筆を落としたので探していいですか?」と云うので「〇〇さん?」「そうです」「名前が書いてあったから今度学校に届けようと思って、預かってるよ」と話すとうれしそうにホッとしました。

 お母さんの話で、この子の家庭では子どもの文房具はエンピツ一本までしっかり把握して、使い切ったら新しくしているそうで、一本でも紛失したらすぐ分かるので、学校に無ければ今日行ったところを探すようにしているとのことでした。

 

 正直、私は驚き恥じました。それは我が身、我が家との対比を余儀なくされたからですが、学校をスタートして地域探検で回った幾つかの見学場所を親子で探し歩き、最後に当館に来たと云う徹底した姿勢に「家庭教育」の原点や大切さを今さらながら教えられたことに対してでした。


 忘れたり落としたりは誰にでもあることですから、それを前提に大人になっても所持品には必ず記名している人がいます。これは私のだらしなさと同様に習慣的に身に付いているからでしょう。

親の所為にするのも恥ずかしことですが、「確かに両親共その辺も手抜きだったなー」と思うと同時に「マァほどほどで助かったかなー」と云うのも実感でしたから、当館見学後見当たらなくなったモノがある方は、遠慮なくお問い合わせください。

2020年2月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―606『京都大徳寺15代管長・高田明浦氏』

  後醍醐天皇や花園上皇から戦国武将まで多くの帰依を集めたことでも有名な京都紫野・大徳寺は京都五山に連なる名刹として今なおその光輝を放っています。

大燈国師を開山と仰ぐこの寺は、茶の湯や庭園など中世日本の美と粋が凝縮されている空間として、知る人ぞ知る中世文化の殿堂でもあります。



  後醍醐天皇の保護下では京都五山の上位に位置付けられていた大徳寺ですが、足利政権になると後醍醐天皇と関係の深かったが故に五山から外され十刹の最下位近くに落とされました。

その為、大徳寺は足利政権の庇護と統制下にあって世俗化した五山十刹から離れ、座禅修行に専心する独自の道を歩み始めました。こうして五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的寺院を「林下」(りんか)と呼び分けるようになったそうです。


 このように歴史ある大徳寺には、国宝の「方丈」「唐門」「絹本墨画淡彩観音猿鶴図」を始め、重要文化財の「勅使門」「山門」「仏殿」「法堂」「木造大燈国師坐像」や史跡・特別名勝に指定されている「方丈庭園」など国の文化財が多数あることでも有名です。


 その大徳寺の15代管長が、1943年(昭和18年)に山梨県昭和町築地新居で生まれた高田明浦氏です。高田氏の生家は、現在も築地新居615番地にある明亀山香積寺です。

県内の名刹としては、武田信玄の菩提寺である塩山の恵林寺や向岳寺が浮かびますが、全て信玄ゆかりの臨済宗です。高田氏の生家・香積寺も臨済宗の寺院ですが、武田三代の間に臨済宗から日蓮宗に宗派替えする寺院もありましたから、昭和町内の臨済宗の寺は、香積寺1か寺だけです。


表千家不審菴:髙田明浦猊下   高田明浦氏は現在の押原小学校に通い、13歳の中学進学時に上京し、東京・廣徳寺の福富以清和尚に就いて得度、大徳寺派13代管長の中村祖順老師の法を嗣ぎ、1984年に龍翔寺住職となり、大徳僧堂師家に就任後、2004年に大徳寺派第15代管長に就任したというのが略歴です。

 

 高僧になると俗名と別に「道号」とか「法諱」「室号」と云った名前が付きますが、ちなみに高田明浦氏は、俗姓「高田」、道号「明浦」、法諱は「宗哲」、室号「嶺雲室」です。


  室号「嶺雲室」で検索すると高田明浦氏の作品である書や茶道具などが多数出てきますから、書家であり作家であることが分かります。

俗な話、「書」は書道の大家よりも高僧の手による書の方が値段も価値もあると云った話を聞いたことがありますから、高僧=書家となるのでしょう。ですから、「室号」とはその作品を生み出す室の名と云う事かも知れません。


 高田明浦氏は、故郷・山梨の恵林寺など末寺の祭事にも来ているそうですし、昭和町の生家・明亀山香積寺の本堂建て替えに際しては多大な寄付金を寄せているそうです。

昭和町出身者と云った括りで、紹介されたり語られるのはご迷惑かも知れませんが、日本を代表する寺院のトップに同郷の方が居ることは、町民、県民にはうれしいことですから、承諾なしに勝手を書かせていただきました。