2020年2月14日金曜日

杉浦醫院四方山話―606『京都大徳寺15代管長・高田明浦氏』

  後醍醐天皇や花園上皇から戦国武将まで多くの帰依を集めたことでも有名な京都紫野・大徳寺は京都五山に連なる名刹として今なおその光輝を放っています。

大燈国師を開山と仰ぐこの寺は、茶の湯や庭園など中世日本の美と粋が凝縮されている空間として、知る人ぞ知る中世文化の殿堂でもあります。



  後醍醐天皇の保護下では京都五山の上位に位置付けられていた大徳寺ですが、足利政権になると後醍醐天皇と関係の深かったが故に五山から外され十刹の最下位近くに落とされました。

その為、大徳寺は足利政権の庇護と統制下にあって世俗化した五山十刹から離れ、座禅修行に専心する独自の道を歩み始めました。こうして五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺や妙心寺のような在野的寺院を「林下」(りんか)と呼び分けるようになったそうです。


 このように歴史ある大徳寺には、国宝の「方丈」「唐門」「絹本墨画淡彩観音猿鶴図」を始め、重要文化財の「勅使門」「山門」「仏殿」「法堂」「木造大燈国師坐像」や史跡・特別名勝に指定されている「方丈庭園」など国の文化財が多数あることでも有名です。


 その大徳寺の15代管長が、1943年(昭和18年)に山梨県昭和町築地新居で生まれた高田明浦氏です。高田氏の生家は、現在も築地新居615番地にある明亀山香積寺です。

県内の名刹としては、武田信玄の菩提寺である塩山の恵林寺や向岳寺が浮かびますが、全て信玄ゆかりの臨済宗です。高田氏の生家・香積寺も臨済宗の寺院ですが、武田三代の間に臨済宗から日蓮宗に宗派替えする寺院もありましたから、昭和町内の臨済宗の寺は、香積寺1か寺だけです。


表千家不審菴:髙田明浦猊下   高田明浦氏は現在の押原小学校に通い、13歳の中学進学時に上京し、東京・廣徳寺の福富以清和尚に就いて得度、大徳寺派13代管長の中村祖順老師の法を嗣ぎ、1984年に龍翔寺住職となり、大徳僧堂師家に就任後、2004年に大徳寺派第15代管長に就任したというのが略歴です。

 

 高僧になると俗名と別に「道号」とか「法諱」「室号」と云った名前が付きますが、ちなみに高田明浦氏は、俗姓「高田」、道号「明浦」、法諱は「宗哲」、室号「嶺雲室」です。


  室号「嶺雲室」で検索すると高田明浦氏の作品である書や茶道具などが多数出てきますから、書家であり作家であることが分かります。

俗な話、「書」は書道の大家よりも高僧の手による書の方が値段も価値もあると云った話を聞いたことがありますから、高僧=書家となるのでしょう。ですから、「室号」とはその作品を生み出す室の名と云う事かも知れません。


 高田明浦氏は、故郷・山梨の恵林寺など末寺の祭事にも来ているそうですし、昭和町の生家・明亀山香積寺の本堂建て替えに際しては多大な寄付金を寄せているそうです。

昭和町出身者と云った括りで、紹介されたり語られるのはご迷惑かも知れませんが、日本を代表する寺院のトップに同郷の方が居ることは、町民、県民にはうれしいことですから、承諾なしに勝手を書かせていただきました。