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2019年10月30日水曜日

杉浦醫院四方山話―596『童謡・わらべ歌・唱歌』



 杉浦醫院院内コンサートは昨年、ピアニストの佐藤恵美さんから「今年は童謡誕生100周年の記念の年だから、友人の童謡歌手・塩野さんとの童謡コンサートは如何でしょう」と提案をいただき、それならば地域の西条小学校の児童にも聴かせたいと小学校での「出張コンサート」を開催しました。

 西条小学校コミュニティースクールの一環として保護者や地域の方々も参加し、皆さんからご好評をいただく中で「町内全ての学校で子どもたちに聴かせたい」となり、今年は11月1日(金)11時から押原小学校での開催となりました。


 杉浦家から寄贈された昭和八年の皇太子生誕を記念して日本楽器が日本で百台受注製造した文化財的ピアノを活用して始めたコンサートでしたが、薬香も残る院内で、庭園の木立を抜けた風に吹かれながらのコンサートはファンも多く「今年の院内コンサートは?」との問い合わせもありますが、どう工夫しても定員40名が限界でしたので、童謡と云うこともあり試験的に学校を会場に開催したところ費用対効果と云った行政面からの評価もあり、出張コンサートが継続開催となりました。

そんな訳ですから院内コンサートを心待ちにしていた皆様も保護者や地域にも開かれたコンサートですから押原小学校の多目的ホールにお越しいただきお楽しみくださいますようご案内いたします。 

「押原小学校」の画像検索結果
押小多目的ホールは、ご覧のようにステージのある正面は「押原の杜」の自然を借景に取り込んだ会場ですから、杉浦醫院院内コンサートにも通じる雰囲気も味わえます。

 さて、「童謡」は子ども向けの歌を指すのでしょうから「わらべ歌」や「文部省唱歌」も童謡に入るのでしょうか?なぜ「童謡」「わらべ歌」「唱歌」と云ったジャンル分けがあるのか?前からちょっと気になっていましたので、フリー百科事典『ウィキペディア』で調べてみました。

 

 前述のように昨年が「童謡生誕100周年」だったそうですから、日本で大正時代以降、子どもに歌われることを目的に作られた創作歌曲を正確には童謡と云っているそうで、もっと厳密には創作童謡と呼ぶのが正しいそうです。

 ですから、学校教育用に創作された「唱歌」は、文部省が歌詞に徳育を盛り込んだり情操教育にと日本の風景を賛美するなど教育的配慮が施された子どもの歌とも云え、童謡には含まれないそうです。そう言えば、文部省唱歌 「日の丸の旗」 など「白地に赤く日の丸染めて、 ああ美しや、日本 の旗 は」とすっかり擦り込まれていますからねえ・・

 また、「わらべ歌」は作詞・作曲者も不明な自然発生的に生まれた歌を総称するようで、自然童謡とか伝承童謡と呼ばれることはあっも童謡には含まれないそうです。確かに「本当は怖いわらべ歌」と云った考証もありますから、ある意味手あかのついた子どもの歌を外す意味もあったのでしょうか?



 要するに大正時代に子どもに芸術的香気の高い歌謡を創作して与えていこうという新しい運動が起こったということで、鈴木三重吉が1918年(大正7年)に児童雑誌「赤い鳥」を創刊したことと軌を一にしています。鈴木は「芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲」を子供たちに与えたいとして、そうした純麗な子供の歌を「童謡」と命名し、これまであった「わらべ歌」や「唱歌」と一線を画したということのようです。



 まあ、こう言ったジャンル分けには大した意味もないように思いますし、これらの概念も時代と共に変わっていくのが世の常でしょうから、「童謡=子どもの歌」として唱歌、わらべ歌に限らずアニメの主題歌なども含め、子どもが喜んで歌う歌は全て「童謡」で言いように思いますが、鈴木三重吉センセイが崇高な精神で追求した世界にそれでは失礼、いい加減過ぎると云うものでしょうか? 

2017年10月30日月曜日

杉浦醫院四方山話―522『第6回・杉浦醫院院内コンサート』

 10月22日(日)に予定していました秋の院内コンサートは、台風に伴う大雨の為延期になりましたが、演奏者のご協力で11月19日(日)に延期開催出来ることになりました。

 

 杉浦醫院応接室には、昭和8年の今上天皇生誕を記念して、日本楽器(YAMAHA)が日本で100台限定で受注生産したと云うグランド・ピアノが設置されています。この100台のピアノは、太平洋戦争末期の本土空襲で大部分が焼失し、現在は日本に3台しか残っていないという大変貴重な文化財でもあります。  

 

 山梨県内での購入希望は、3姉妹の為にと三郎先生が1台だけだったことからニュースにもなり、それを知った親友の小野修先生が「お前は娘を歌唄いにする気か」と怒鳴り込んできたそうですから、このピアノには昭和初期の時代背景や硬派な医者の親交などから始まる多くの物語が内包されています。


 昭和10年前後に山梨の片田舎・西条村にもシャンデリアの下で、ピアノのレッスンを受けていた純子さん、郁子さん、三和子さんの3姉妹が居たことも特筆に値しますが、戦後、三郎先生に治療法を学びに来た米軍の軍医が戦時下でも持ち歩いていたという楽譜でこのピアノを弾いては、一緒に歌った思い出など今でも楽しそうに思い出しては語る純子さんです。

 

 東京に嫁いだ郁子さん、三和子さんのお子さんたちも夏休みには「西条」に滞在して、このピアノを毎日弾いていたそうで、「音大に進んだタカちゃんやヒロちゃんは、子どもの時から上手で、まあよく弾いていたよ」とか「患者さんがいっぱいいても診察室の隣で弾いてたから、先生も聴診器なんか聴こえなかったらね」と仕事に来ていた橋戸棟梁も懐かしそうに話してくれます。

 

 三郎先生が名付け親のお隣・正覚寺の敦子さんは、流れてくるピアノの音やメロディーを聴き、西洋音楽とヨーロッパに憧れたことが、現在のウイーンでの生活にも繋がっているそうで、帰国する度に純子さんにベートーベンやモーツアルトのCDセットをお土産に持参下さいます。

 

 このピアノの存在を知った静岡県富士市の調律家・辻村さんと臼間さんは、丸一日かけて永年眠っていたこのピアノを見事に復活させ、以後、遠路にもかかわらずお二人で毎年調律に来ていただいていますから、物語は現在も進行中と云えます。

 

 杉浦醫院「院内コンサート」は、このように歴史と物語に溢れた杉浦家のピアノを価値ある調度品として展示しておくだけでなく、80年以上の時を経ても十分演奏用としても使用可能である実態をコンサートを楽しみながら確認いただこうと4年前から始まりました。


 秋のコンサートは、特に「杉浦醫院のピアノとすごす午後のピアノコンサート」とピアニスト・佐藤恵美さんが命名くださいましたが、杉浦家と親戚にもなる佐藤さんは「このピアノに魅せられました」と初回から演奏いただいております。今回2回目の杉浦誠氏は、声楽家としてもご活躍ですが、現役の外科医でもある杉浦家の親族です。

 お二人は、それぞれ東京、静岡と県外でご活躍中ですが、杉浦醫院のピアノが取り持つ縁で、このコンサートが持続できるのも三郎先生が仕掛けてくれいたようにも感じ、矢張りコンダクターで主人公は、三郎先生という物語を伝承していきたいと思います。

 

 19日に延期開催となりました「杉浦醫院のピアノとすごす午後のピアノコンサート」へ新たに参加ご希望の方は、お早めに当館(275‐1400)までお申し込みください。 

2016年11月14日月曜日

杉浦醫院四方山話―488『第4回 杉浦醫院院内コンサート』

  4回目の院内コンサートは、「杉浦醫院のピアノと過ごす午後のコンサート~愛する人へ~」と題して、ピアニスト・佐藤恵美さんをお迎えして行われました。


 このコンサートに合わせて3日前に富士市の辻村音楽企画店の辻村氏と臼間氏がピアノの調律に来てくださいました。

辻村氏は、「調律は弾く人のタッチに合わせて行いますから、佐藤さんの好みが分からないと満足していただける調律は出来ません」と云うので、東京にお住いの佐藤さんのピアノの調律も任されているのか聞いてみました。

「私は、そのピアノを弾く人と必ず事前に話をするようにしています。佐藤さんとも電話で話しました。50年この道一筋ですから、話の中で好みやクセと云ったものが自然に分かり、それに従って調律しますが、まず外れることはありません。そうでなくちゃベテランなんて言えませんよ」と、極控えめにおっしゃいました。


 例えば、「対面して話すと目や口の動きでその人の気持ちが分かる」とか「早口で話す人は頭の回転が速い」と云ったような人間判断を心理学者と称する人が、面白おかしく書いていますが、「話をしてピアニストのタッチの好みが分かる」と云う話は、初耳でした。「佐藤さんのタッチに合うよう調整しておきました」と云って帰途についた辻村氏ですから、初耳の話にも一層信憑性も増し、自信の調律だったこともうかがえました。


 今回のプログラムは、1部は11曲の「愛の曲」で統一され、2部は春夏秋冬の「日本の懐かしい名曲」を15曲、計26曲のピアノ演奏でした。

佐藤さんは、それぞれの曲紹介に作曲家のエピソードなど分かり易い解説を交えての楽しい演奏会を演出してくださいました。

 ベートーベン作曲でオルゴールでもお馴染みの名曲「エリーゼのために」は、ベートーベンが愛したテレーゼという実在した女性のために作った曲だったそうです。ベートーベンが悪筆だったことから判読できず、テリーゼがエリーゼになってしまったというのが、この曲名の定説になっていること等々、エルガーからグリーグまでの西洋音楽史を楽しく学べた演奏会でもありました。


 国立音楽大学で教えている佐藤さんは、杉浦醫院のピアノについても調べたそうで、「現在これと同じピアノは、宮中に一台とここに一台。もう一台は形は残っているそうですが音は出ませんから実質2台しかありません」と話し「しっかりした素材の木が使われているピアノですから、このようにきちんと手入れさていれば、いつまでも使え、音色も違います。弾くたびに私はこのピアノに感動し、虜になってしまいました」と皆さんに語りました。

 

 「ピアニストと話せば自然に好みやクセも分かる」と云った辻村氏の話と佐藤さんの「本当に素晴らしい調律がされていて、気持ちよく弾けました」と云う言葉が重なり、あらためて辻村氏の慧眼と自信に裏打ちされた技術力に敬服してしまいました。

 演奏するピアニストやそのピアノを日常的に使う人の好みやクセを把握した上で、はじめて調律が出来ると云う辻村氏。言われてみれば当たり前のようですが、一般的な調律は、そんなことにお構いなくするのが普通になっているのが現実ではないでしょうか?

 

 昨年のコンサートに合わせボランティアでピアノ再生をしていただき、今年から定期的に調律をお願い出来ることになりましたが、遠路お越しいただき調律作業の時間も人数も「普通」の倍以上ですから、辻村氏からは、「世の普通がおかしいのだ」と言う事を身を以て教えていただいているようです。

辻村さん、臼間さんが調律したピアノの良さを十二分に引き出しての佐藤さんの演奏、一台の名ピアノが醸す絶妙なハーモニーとして、「是非、来秋も」とのリクエストによろしくお願いいたします。

2015年11月18日水曜日

杉浦醫院四方山話―456 『杉浦醫院のピアノと過ごす午後のコンサート』

11月1日(日)に当館で「杉浦醫院のピアノと過ごす午後のコンサート」が開催されました。

 折に触れて杉浦醫院のピアノは紹介してきましたが、「皇太子(現天皇)生誕記念」とか「日本に数台」と云った価値もさることながら、矢張りピアノは「弾いて」「弾かれて」その音色や響きを実際に聴いた人の評価で価値が決まることを実感しました。

今回の院内コンサートは、出演者お二人の総意で「杉浦醫院のピアノと過ごす午後のコンサート」と銘打たれました。

 当日のプログラムも杉浦誠さんにご用意いただきましたが、全16曲の曲目と作曲家のエピソードなども演奏の合間にお二人から紹介され、曲目選定も音楽史の概要に沿ったものでした。

 好評と云えば、ピアノの音色が「昨年と全く違う」と参加者からも指摘されましたが、ピアニストの佐藤恵美さんもスピーチの中で、「素晴らしい音で、弾いていて楽しくなります」とか「このピアノが欲しくなってしまいました」と話され、杉浦誠さんも「流石、辻村さんですね。とてもいい音色で聴き入ってしまいますね」と蘇ったピアノに感嘆の声が続きました。


 圧巻は杉浦誠氏のテノールで、マイクを使わなくても駐車場まで届く声量は、体全体から声を出しているようにも見え、院内を揺るがす程の迫力で、「声楽家の歌唱をこんなに近くで目の当たりに出来たのは初めてで感激しました」と参加者も興奮気味でした。

昨年の院内コンサートでは、数曲で退席した純子さんも「私は視力が衰えて、見えませんから廊下で聴かせていただきます」と条件の悪い廊下でしたが、自分が使ったピアノの音色を懐かしみながら最後まで聴き通しました。

休憩時間に純子さんにこのピアノにまつわる思い出などインタビューしましたが、「こんなにいい演奏会を開いていただいて、ピアノも新館もとても喜んでいると思います」と話すと、会場は拍手に包まれ、文字どおり「杉浦醫院のピアノと過ごす」時間が共有出来たことを喜び合いました。


 コンサート会場のような音響条件は望むべくもない院内コンサートですが、観客席はガラス戸を外した診察室ですから、ピアノ再生にご尽力いただいた辻村氏が、「客席が向こうならピアノの位置はここしかありません」と蘇ったピアノを4人で押して、東側の窓際に移動しました。

「客席に向かって反響版を上げないとせっかくの音がお客さんに届きません。グランドピアノがあっても反対向きのまま使われている学校などよくありますが、もったいないです」と、これまでの位置から演奏に使うことを前提にした場所に移動したのも好評だった一因かもしれません。

 

今コンサートを機に県内調律師では修復不可能とも云われたピアノが見事に蘇り、人数こそ50人前後と限界はありますが、院内コンサートとして高レベルな音楽文化を楽しめることが分かりましたので、定期開催も視野に計画していきたいと思います。

ご出演下さいました杉浦誠様と佐藤恵美様には重ねてお礼申し上げます。

2015年11月12日木曜日

杉浦醫院四方山話―454 『 ピアノ再生物語5-整音作業』

 辻村氏と臼間氏の作業工程を実見し、説明を受ける中で分かったことは、辻村氏が実践しているピアノのメンテナンスは、先ず埃や錆び、汚れを徹底的に綺麗にして、アクション各部を主にドライバーで調整する「整調」作業をし、次に音律を正す「調律」を施すと云う工程です。

ですから、一般的な「ピアノの調律」は、「整調」もこの後施した「整音」も入っていないので、一人でも1~2時間で終わることが出来ることも分かりました。


 「磨き」「整調」「調律」が完了した時点で、既に6時間が経過しましたが、辻村氏は「後は整音だけですから」と云うので、5時過ぎには終わるものと勝手に思いましたが・・・・

 

 「整音」作業は、正確なことは分かりませんが、ピアノのハンマー1本1本のフェルトの硬さを調整する作業のようで、これによっていわゆる「ピアノの音色」が決まるようです。 

 始まった「整音」作業は、先ずハンマーのフェルトにある「硬度分布」にそって、そこに針で穴をあけて調整するという細かい作業でした。

  ハンマーのどの位置に幾つ針を入れるかは決まっていないので、二人の経験から編み出されるカンなのでしょうか? 

 

 このハンマーに針を刺す作業で「整音」が終わるものと思っていましたら、今度は、ご覧のようにヤスリでハンマーのフェルトの形を整えるかのような作業が始まりました。この作業がどう音色づくりに係るのかは聞き漏らしてしまいお伝えできませんが、針刺し同様これも一本一本の手作業ですから、この時点で6時30分を過ぎていました。



 その頃、午前中、取材した山梨放送が夕方のワイドニュースで、二人の修復作の様子を放映したのでしょう、町長から電話が入りました.                                              

「最後の工程のようですが、まだ作業が続いています」と応えると「それじゃあ、直ぐ挨拶に行くから」と、消防団団長で鍛え上げた町長の即断力に「さすが」と感心し、ボランティアでここまでしていただいているお二人に町長からの挨拶は何よりのお礼になるので、感謝しつつお願いしました。                                                             

 

 

 作業終了間際に丁度、町長が駆けつけてくれましたので、完成したピアノを前に記念撮影も出来ましたが、お二人は休む間もなく工具の片づけや車への積み込みにかかり、7時30分には「真っ直ぐ帰りますから」と帰途につかれました。

 お二人を見送りながら思わず浮かんだのは「疾風のように現われて、疾風のように去って行く、月光仮面のおじさんは、正義の味方よ良い人よ」のフレーズで、辻村氏と臼間氏の仕事ぶりと人としての実存は、私には、さながら現代に蘇った「月光仮面」そのもでした。 

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5回に渡り、今回の当館ピアノ再生作業について、ご紹介してきましたが、ピアノ素人の視点からの記述で、内容的に辻村氏の本意あるいは説明と違う、不正確な部分もあるかと思います。お気づきの点がありましたら、電話にてご教示いただけたら幸いです。055-275-1400

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2015年11月11日水曜日

杉浦醫院四方山話―453 『 ピアノ再生物語4-調律師資格』


 今回、「一日で仕上げます」には、社長の辻村氏と主任技術者の臼間氏の二人での作業が前提だったようで、指示や注意などの言葉は一切なく、息の合った分担作業が続きました。

 例えば鍵盤関係では、1本1本磨いたり、締めたり、削ったりの作業ですから、黒鍵36、白鍵52の合計88鍵の鍵盤を二人で左右から始めることで半分の時間で出来ることが分かりました.仕事の手を休めることなくテレビや新聞の取材の方々に説明したり、質問にも気安く応じていただきました

こう云う貴重なピアノに係れ胸がときめく程やりがいがあります」と若々しくインタビューに答える辻村氏

「調律師になるのには何処で学ぶんですか?」        

「ヤマハやカワイには、調律師養成学校もありますが、国立音大など音大や専門 学校にもあります。静岡には楽器メーカーが多いので調律師も多いんじゃないですか。学校出たから出来ると云うモノじゃないですがね」                

「臼間さんもカワイ出身ですか?」 

「私は彫金をしていたんですが、辻村さんの仕事を観て、彫金と同じような手作業で大きなピアノを蘇らせていくのに感動したんです]

「二人のお嬢さんは、上智と東大ですから頭は良いのは分かっていましたが、兎に角呑み込みが早い。それにやる気があるから、私に就いて修業して今ではウチの柱です」と、臼間氏は辻村氏個人から技術を習得して調律師になったことも知り、二人の「阿吽の呼吸」は、そういう過程で自然に育まれたものでしょう。                                                                              

内外の磨き作業と整調作業が終わったピアノの底板には、埃で見えなかったエンブレムもご覧のように見事に蘇りました。

「現在のヤマハのエンブレムは角ばった模様の中に字体が違うヤマハの文字だから、いやあ~このエンブレムは初めてです。これだけでも貴重ですね」と辻村氏。

臼間氏も写真に収めていましたが、このようにピアノの内部を上から目の当たりに出来たのも外せるものは全て外しての作業だからこそでした。                                 

2015年11月6日金曜日

杉浦醫院四方山話―452 『 ピアノ再生物語3-整調作業ー』

  錆びたチューニングピンとピアノ線を磨くには、ご覧のようなワイヤーの錆び取り工具でゴシゴシ磨くしかないそうで、粉塵が舞う中、根気強い作業が続きました。研磨前と研磨後では、ピンや線に雲泥の差が出て「こんなに綺麗になる」から作業にも力が入るのだそうです。

 内部の磨き作業が終わるとピアノは、至る所でドライバーでの調節が出来る仕組みになっていて、一本一本ネジを締めたり緩めたりの手作業が必要になることを知りました。

 調整箇所によって大小のドライバーを使い分けての作業が延々と続きましたが「電動工具では締めすぎたり微妙な調整が出来ませんからドライバーでの手作業になりますね」と、ご覧のように辻村氏の手首から湿布は外せないようです。

 

  取り外せないピアノ内部の調整は暗いこともあって、左手にライト、右手に工具での作業ですが、一か所一か所丹念に調整していくのは、鍵盤に指先を落してピアノを弾いたとき、音が出るまでスムーズに同じ早さになるように「整調」する必要からだそうです。良く耳にする「鍵盤によってタッチが違う」と云った事を無くす調整でしょうか。

 

 これを「アクションの整調作業」と呼ぶそうですが、この整調作業はしなくてもピアノの音は出ますし、整調が多少おかしくても素人には分からないそうですが、ピアニストなら直ぐ分かるそうですから、この「整調作業」は一番大切な部分だからこそ時間を掛けるのだそうです。

 
 

 また、見えないこの調整作業に腕をふるう所に、調律師の醍醐味とやりがいがあるようで、 辻村氏と臼間氏は「これをやらない」調律作業が主流になっていることに警告を発しているかのようでした。

 

2015年11月5日木曜日

杉浦醫院四方山話―451 『 ピアノ再生物語2-出荷検査』

  前話で、辻村氏の「ピアノ調律論」は「出来る限り工場出荷当時の状態に戻すこと」と、紹介しましたが、辻村氏は現在の「辻村音楽企画店」を起業して独立するまで、河合楽器でピアノの製造に従事し、最終の「出荷検査技師」を永く務めていたそうです。


 ですから、カワイピアノをお持ちの方は、ピアノの製造番号が付されたお客様カードの一番上にある「出荷検査」の「技師名」をご確認ください。

「技師名に私の名前・辻村晴男とあるカワイピアノが相当数あります」と話し、このピアノの内部に保管されているお客様カードを取り出しました。


 「おっ、これは尾島さんだ。この尾島一二と云う人はヤマハの有名な技師で、ピアノの製造に係った人なら知らない人はいません」と感慨深げです。


 「杉浦三郎様御所有」と記された桜色のカードには、先ず「御注意」が記載されています。

「弊社製ピアノの調律修繕は生みの親の弊社技師に御任せ願ひます。カードの記録は後々迄仕事の責任を明らかにしてピアノの御保存上重要な役目をするものでありますから必ず記入させて頂きます」

 

 その下に「山葉ピアノ 平型NO.記念 製番NO.21346」とあり、1から12までの表の1出荷検査の技師名に「尾島一二」とあり「尾島印」と「9年7月14日」がしっかり読み取れます。

2納入検査は、「内藤正民」「内藤の角印」に「9年7月20日」とあります。



 上記から、昭和8年に皇太子生誕記念として受注生産したこのピアノを三郎先生が甲府の内藤楽器に注文し、約一年後の7月14日に浜松市のヤマハ工場から出荷され、内藤楽器の内藤正民氏が7月20日にこの応接室に納入したことが分かります。



 アクションを外し鍵盤を外すと鍵盤の下から内部にかけて積年の埃がたまっていました。 

「この埃が虫食いの原因になるんです。」と、虫が食べた跡がアルファッベッドのような模様になっている緑のフェルトを指差し「この程度ならまだ交換の必要はありませんが、計画的に交換していけると一番いいんですがね」と、埃を専用掃除機で取り去ると、ピアノ線の錆び取り作業など内部の磨きを黙々と進めるお二人に、マスクとエプロンは必需品でしたが、肝心な細かい作業になると手袋は外して・・・と、再生に掛ける情熱がひしひしと感じられました。




2015年9月20日日曜日

杉浦醫院四方山話―443 『11/1 院内コンサート』

  杉浦醫院の応接室にあるグランドピアノの詳細については、当190話・191話をご覧いただくとして、このピアノを活かしての院内コンサートを今年も開催します。今年は、杉浦家の親戚でもある音楽家お二人によるオータムコンサートです。

 

 沼津市にお住いのテノールの杉浦誠氏は、熱海所記念病院の院長を勤める脳神経外科医ですが、年10回以上のステージをこなすオペラ歌手でもあります。


「ストレスの多い脳神経外科医にとって、オペラを歌うことがストレスを寄せ付けない最高のリラックスタイムにもなるので、今日まで二足のわらじを履いてきました」と笑いますが、メジャーな舞台なども多いプロでもあります。

純子さんも「誠さんは、声がきれいで歌がお上手でしたから、そちらの道に進むのかと思っていましたが、医者になったようですね」と幼少のころから目立った才能を発揮していたようです。



5年前に昭和町で行われた「杉浦家従兄弟会」に参加した折、当館ピアノの存在を知った誠氏が温めてきたコンサートが、ピアニスト・佐藤恵美さんとのスケジュールが合い今回開催できることになりました。



 ピアニスト・佐藤恵美さんも杉浦誠氏の従兄弟ですから、純子さん姉妹もピアノを弾いていたように杉浦一族には音楽家や音楽趣味が共通しているように思います。

 

 佐藤恵美さんは、国立音楽大学大学院を首席で卒業、成績優秀者に贈られるクロイツアー賞を受賞され、1992年には国際ロータリー財団奨学生として渡独し、ドイツ・デトモルト音楽大学・大学院過程を最優秀で終了したと云う経歴の持ち主です。



 今回、ジャンルとしては固めのクラッシックですが、杉浦誠さんは「なるべく多くの皆さんが知っている親しみのある歌曲で構成しようと思います」とおっしゃっていましたから、オペラをマイクを通さず聴けるこの機会をお聴き逃しなくどうぞ。



 院内ですから、定員やコンディションに限りや障害もありますが、昭和8年に杉浦家が山梨で一台だけ注文したと云う、皇太子(現天皇)生誕記念家庭用グランドピアノを使ってのコンサートですから悪しからずご了承ください。



参加申し込みは、電話275-1400(杉浦醫院)までどうぞ。


2012年11月10日土曜日

杉浦醫院四方山話―196 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-3』

 「やっとできた。認められた!伊沢所長のおかげで完成したオルガンです。どうぞ使ってください」と山葉寅楠は、このオルガンを、国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所に寄贈しました。これを喜んだ伊沢所長は、二人が造ったオルガンを「国産オルガン製造成功!」と東京芸術大学学長のお墨付きとして語り、そのニュースは口コミで広がって「山葉風琴製造所」は、本格的にオルガン製造にとりかかることになります。そして、1年後、風琴製造所の従業員は100名を超え、ロンドンに輸出するまでに急成長しました。
 
 明治22(1889)年、寅楠は、東京や大阪の楽器商社と協力して個人商店だった山葉琴風製造所を「日本楽器製造株式会社」に改組し、今度は国産ピアノの製造を目指しました。
伊沢修二所長の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡りピアノ工場を見学し、部品を買い付け、会社の総力をあげて、国産ピアノ第1号の製造にとりかかります。
アメリカで買い付けた部品を基に、ピアノの生命といわれるアクション=響板には、日本で開発したものを使おうと、河合の親戚の河合小市と云う当時11歳にその響坂制作を委ねたそうです。天才少年河合小市は、後に「河合楽器」を創業した人物ですから、ヤマハとカワイは、国産オルガン製造からピアノに至るまで、二人三脚で築き上げてきた訳です。「男は男に惚れられなければ事業に成功できない」と云う寅楠の名言は、協力者・河合の存在なくしては生まれなかった実感だったのでしょう。
   以上、国産ピアノ誕生までの「物語」の概要を「日本のピアノ100年」を基に紹介してきましたが、「いのちの授業」とか「安心安全な○○づくり」が、全国至る所で取り組まれている現在、「先ず惚れること」とか「惚れられると・・」と云った個々の感情とか思いの大切さや多様性による人生の面白さについて、学校も社会も触れません。それどころか、安直な不案操作のように何年か周期で、学校でのいじめ問題をマスコミは話題にします。個々のケースや原因は様々なのに決まって、「自殺」を引き金に「学校や教育委員会の対応」を軸に、いじめた側、いじめられた側双方の家庭状況まで、のぞき見的に取材して臨場感を出す手法まで同じです。
 学校と云う閉鎖社会の中で、近年特に強まっている「同質性圧力」が、いじめの原因として根底にあることは間違いないのにその辺の本質的な報道では面白くない?のか、ただただ不安を煽る子育て環境醸成報道になっています。「学校で通用している価値観などたかがしれている。もっともっと世界は広いぞ!」と、寅楠と河合の人生物語は教えているようで、こう云った魂を揺さぶる「物語」も、同質性圧力から逃れる一つのバネとして、有効もしくは効果ありの教育的指導のように思う今日この頃ですが、如何でしょうか?

2012年11月9日金曜日

杉浦醫院四方山話―195 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-2』


 山本さんからの電話で「ヤマハ トラクス」と聴いた時「ハーフなのか?」と思いましたが、寅楠という漢字と紀州藩士の家に生まれたことを知って、同郷の植物学・民俗学者の南方熊楠(みなかた くまくす)が浮かび、ふと、江戸末期の紀州藩では、名字帯刀を許された男子には、「馬楠」「猿楠」と云った「動物名+楠」が、流行ったのかな? と・・余談はさておき、本題に・・
 
 寅楠は、来る日も来る日も修理を頼まれたオルガンの内部を調べ、全ての部分を細かく図面に書き写し、約一ヵ月でオルガンの構造や必要な部品について、何十枚もの図面に書き落とし、壊れたネジも治金術で造り、元通りに修復してしまいました。
 書き写した図面を基に寅楠は、一からオルガンづくりにかかるため資金を求め、あちこち尋ねては協力を求めますが、多くの人は「気でも狂ったか」という中、一人だけ飾り職人で小杉屋を営む河合喜三郎が寅楠の熱意と腕にかけてみようと協力し、小杉屋の仕事場で、朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でオルガンづくりに没頭し、約2ヵ月かかって第一号オルガンを完成させます。真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらうと「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」と言われ、静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)でも同じ結果でした。ドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代で、「調律」と云った言葉も知る人がいない地方でしたから、何がどうおかしいのか、河合と寅楠にも、肝心なところがわかりません。何をどうすればいいのか・・・もっと偉い先生に聞いてみなければと二人は、作ったオルガンを音楽取調所(現東京芸術大学)に持ち込むことにしました。二人は、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運んだと云います。100k近い重量のあるオルガンを箱根の山越えもある東海道を約270kmです。いったい何日かかったのでしょうか・・・・
ようやく音楽取調所に着いた二人に教授たちは驚きました。先ず「素人の個人がオルガンを造ってしまったことに」驚き、「そのオルガンをかついで運んで来たこと」に驚き、「音が全く外れていること」にも驚いたそうです。
   西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、「調律が出来ていないが、あと一歩です。君たち音楽を学んでいきなさい」と二人のために、宿舎を提供し、音楽取調所の聴講生となることを許可してくれます。寅楠は、調律、音楽理論を必死で学び、浜松に帰って、すぐ2台目の製造にとりかかり2ヵ月で第二号のオルガンを完成させ、天秤棒で再び270kmの道のりをかついで音楽取調所に向かいました。そこで、伊沢教授の「すばらしい!よくやりましたね。外国製に負けない見事なオルガンです」の賞賛に、寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。そうです。

2012年11月7日水曜日

杉浦醫院四方山話―194 『山葉 寅楠(やまは とらくす)-1』

 190話「山葉ピアノ」の文中で「確かに、YAMAHAの創業者は山葉何某(失礼)でしたが、この時代には・・・」の件に関して、山本哲氏が、YAMAHAの創業者は、山葉寅楠であることと杉浦医院内にピアノがある必然性について、教えてくれました。調べていくと「山葉何某」では、失礼の極みであることと和製オルガン誕生の隠された歴史は、「日本人のモノづくり」について考えさせられる「物語」を内包していますので、寅楠氏とその人生についてご紹介してみます。
山葉寅楠は、江戸幕末期の嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた武士ですが、明治維新で家が没落し、寅楠は、二十歳のときに大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びます。ところが肝心の仕事がなく、技術者として職を求めて、全国各地を転々とした結果、明治17(1884)年、寅楠35歳のとき静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらい、浜松に赴きます。要するに寅楠は、県立病院の医療機器修理を専門に請け負う技術者だったのです。
 当時、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられ、浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためのオルガンを輸入したそうです。オルガンは外国製で、とてつもなく高価なものでしたから、このオルガンの話は、浜松だけでなく静岡県じゅうに広まり、各地から大勢の人が見学に訪れたそうです。
ところが、このオルガンがすぐ故障してしまい、外国製で、部品もなければ修理工もいないことで困った学校は、浜松県立病院に医療精密機器の修理工・山葉寅楠がいるという話を頼りにオルガン修理を寅楠に依頼したのだそうです。寅楠にとっても、見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか不安だったでしょうが、まわりの人が心配そうに見守る中、オルガンを点検し、内部のバネが二本壊れているだけだと寅楠はすぐに見抜いたそうです。同時に「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺にもつくれそうだ」「アメリカ製のオルガンは45円(現4500万円)もする。自分なら3円(現30万円)ぐらいでつくることができるだろう!」と、また「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」と国産オルガンの製造を決心し、個人商店「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」を立ち上げたのだそうです。
風琴(ふうきん)は、風を送って音を出す琴といった意味で、オルガンの和名でしょう。ここから国産オルガン第一号が製造されるまでの「物語」に続きますが、オルガンからピアノへと進んだ原点は、「医療機器」にあったことを三郎先生は知っていたのでしょうか・・・

2012年10月27日土曜日

杉浦醫院四方山話―191 『三木ピアノ』

 昭和8年に昭和天皇に皇太子が誕生した記念に発売され、山梨県では1台、三郎先生が購入したと云う「山葉ピアノ」の販売カタログについて、前話で紹介しましたが、同じ袋には「三木ピアノ」の販売カタログも保管されていました。
「皇太子殿下御降誕!国民歓喜の極み!」と謳い、5つの理由を箇条書きに示し、「三木ピアノが最適かつ理想的記念品となる」と記されています。
「1.子女の情操教育上是非備付の必要になること」「1.家庭にありては音楽は明朗と愉悦の源泉となること」あたりが、三郎先生が購入に至ったキャッチポイントだったのでしょうか? 何故か、山葉ピアノと同じくグランドピアノは「平台ピアノ記念型」とあり、価格も1200円で同じですが、この平台ピアノは学校用とし、竪型ピアノを家庭用と分けています。家庭用竪型ピアノ(アップライト型)は、予約特価520円(正価600円)と平台ピアノの半額ですから、三木ピアノは、家庭用竪型ピアノを販売しない山葉ピアノのスキマを狙ったのでしょうか?
三木ピアノのカタログには、甲府市橘町「功刀楽器運動具店」の印がありますから、三郎先生は、内藤楽器と功刀楽器から予約販売カタログを取り寄せ検討した結果、杉浦家には医院棟があり、その応接室には平台ピアノも置けるスペースがあったことで、敢えて学校用の高額な山葉平台ピアノ記念型が選ばれたのでしょう。
 三木ピアノは、大阪東区に本社があり、支店は神戸市本町通とありますから、主に関西以西エリアで、山葉は静岡県浜松市が本社ですから、東海以北と販売エリアも両社ですみ分けていたのでしょうか?そこで、「カワイピアノは?」と、調べてみると創業者河合小市が「河合楽器研究所」を創立したのが昭和2年、昭和4年に「河合楽器製作所」と改称し、主にハーモニカを製造していたようですから、昭和8年当時はピアノの本格製造には至っていなかったことが会社沿革で推測できます。その点、三木楽器は、明治21年に楽器部創設とあり、書籍業の創業は江戸時代ですから、私が知らなかっただけで、ヤマハと並ぶ老舗でした。
 杉浦家の物品購入は、ピアノに限らず「よいモノを長く大事に使う」姿勢で一貫していますが、今回のカタログも含め付随する木箱や説明書から包装紙まで、きちんと保管されていることにも驚きます。純子さんの話の中に「家訓」と云ったフレーズは、一度も出てきたことはありませんから、大層に家訓として保管されてきたことではなく、当たり前のこととして定着した生活習慣だったのでしょう。強いて言えば、英国人や白州正子に学ぶまでもなく、建物や調度品、収集品から日用品まで、ほんものの生活をきっちり楽しむことが「家風」となって、代々引き継がれてきた結果なのでしょう。ゴミの様なモノが溢れる現代にあって、杉浦家の家風は、大切な教訓を静かに語っているように思います。

2012年10月25日木曜日

杉浦醫院四方山話―190 『山葉ピアノ』

 2年前の今頃、当四方山7話『ピアノ』 と8話『ピアノ余話』で紹介した、杉浦醫院応接室にある今上天皇生誕記念のグランドピアノの予約販売用カタログが応接室書架の封筒に保管されていました。ハンドメイドの特注生産であることから予約販売先を募る文面には「今や国を挙げての慶賀記念すべき時に際会しピアノの備付が諸学校に於ける絶好の記念たるべき事を確信致します」とあり、主たる販売先は、諸学校に的を絞っていたようです。それは、このピアノの販売価格が、学校特価で1200円、正価は1450円とありますから、個人購入には無理のある高額商品だったからでしょう。そう云えば、昭和も30年代までは、学校は家庭には無いピアノ・オルガン・テレビ・ステレオ・楽器等々の最先端文化備品を誇っていた場所でもありました。
昭和8年当時の物価は、天丼40銭、封書3銭と円の下に「銭(せん)」の単位があった時代で、高級官僚の初任給が75円、小学校教諭初任給が50円だったそうですから、それで換算すると、当時の学校特価1200円は、現代の500万円前後、正価1450円は、600万円前後になります。杉浦家は、学校ではありませんから、正価の1450円で購入したと考えるべきでしょうか?・・・

 確かに、YAMAHAの創業者は山葉何某(失礼)でしたが、この時代には、既に社名は日本楽器製造株式会社で商標はYAMAHAになっていました。ピアノにもYAMAHAとしっかり入っていますが、「皇太子殿下御誕生記念」として売り出す関係上、ピアノは漢字に置き替えられないものの「YAMAHA」は「山葉」と漢字表記して、日本の国体に沿う表現が用いられたのでしょう。ピアノもアップライト型を「竪型ピアノ記念型」、グランド型を「平台ピアノ記念型」と苦心の漢字転換がうかがえます。カタログとは云え、文部省謹作「皇太子殿下御誕生 奉祝歌」の歌詞も3番まで載り、「予約限定台数 全国百台限り」と、あくまでも皇太子誕生を祝しての記念販売であることが強調されています。
「父が甲府の内藤楽器店に注文して購入しました」と云う純子さんのお話のとおり「甲府市富士川町12 内藤楽器店」と押印された専用封筒に納まっていましたから、山梨県の日本楽器代理店が当時も内藤楽器店であったことも分かります。

2010年11月30日火曜日

杉浦醫院四方山話―8 『ピアノ余話』

 昭和10年前後の「ピアノ」が、どのような位置を占めていたのか・・・「そうだ同じジュンコだ!」と昔、何度も観た映画をDVDで見直しました。新藤兼人脚本、高橋英樹主演の鈴木清順監督作品「けんかえれじい」です。製作したのは、昭和40年代ですが、映画の時代設定は、ちょうど昭和10年。清順監督が、脚本を無視して、どんどんアイデアを盛り込んだ為、新藤兼人氏が「私の脚本ではない」と怒ったと言ういわくつきの作品でもあります。あらためて清順氏の鬼才ぶりと高橋英樹の若くしなやかな肉体、思いを寄せる浅野順子の清廉な美しさ、全てまぶしくモノクロ映画の良さも確認できました。


 この映画で、マドンナ役の浅野順子が通う学校が、ミッションスクールという設定と彼女が家で弾くピアノは欠かせません。大正ロマンを引き継ぐ軟派に背を向け、旧制中学校の伝統的硬派精神を「けんか」を通してユーモラスに描き、「もっと大きなけんか(思想・政治)へ」と旅立たせる幕切れは、あの時代(1970年代)の若者への清順監督の熱いメッセージでもありました。鈴木監督が一番元気だった頃の作品「けんかえれじい」は、杉浦醫院の病院活動全盛期と合致していますので、当時の「ピアノ」の時代背景理解にも面白いかと・・・。

 杉浦醫院応接室には、ピアノと一緒に「ステレオ」もあります。スピーカーと一体型の懐かしいステレオです。中原俊監督のNHKドラマ「松ヶ枝町サーガ」では、このステレオが大切な役を演じています。この作品は、昭和初期の松ヶ枝町の日常を主人公の小学生・ツーちゃんの目を通してのドラマですが、この当時だったら実際に何処にでもありそうな風景や日常的な人間関係が、ノスタルジックかつシビアに描かれています。コーヒーを飲みながらステレオを聴きくという新生活を田舎町に持ち込んだ、岸部一徳演ずる「来たりモン」とそれを好奇心あふれる眼で覗く子どもたちが、杉浦医院のピアノ演奏に集まったFさんたちとダブります。

*2階「座学スペース」で、昭和時代の名作(?)鑑賞教室なども開催出来たらと思っています。

2010年11月26日金曜日

杉浦醫院四方山話―7 『ピアノ』

 プレ・オープンの日から始まった山日新聞紙上での「杉浦父子の思いを未来につなぐ」連載記事の2回目は、応接室のピアノの前で取材に応じる純子さんの写真と記事でした。
「純子さんのお元気な姿を見てなつかしく、今日にも見学に行きたいのですが・・」といった問い合わから「よくぞ町が残した」や「ただ保存するだけでなく、若い高校生もかかわっていくという試みが素晴らしい」というものまで、あらためて新聞報道の反響の大きさに驚いています。
今にも純子さんが弾く音色が聞こえてきそうなピアノですが、それもそのはず、純子さんとは、75年以上の付き合いにもなります。今上天皇は、昭和8年12月23日生れですが、このピアノは、皇太子誕生の祝賀記念に、日本楽器=YAMAHAが、100台限定で製作したうちの1台です。天皇は「現人神」とされていた時代ですから、皇太子の誕生は、東京中に親王生誕を知らせるサイレンが鳴り、人々は旗や提灯を持って街を行列して祝ったそうです。
ベヒシュタイン社のグランド D280。
蓋を外し上から撮影
 この記念ピアノは、家庭用グランドピアノということで、ホールにあるグランドピアノより小ぶりですが、純子さんの説明では「中はドイツ製、外が漆塗りの日本製、鍵盤は本象牙」という造りです。デザインも鶴の脚をイメージした脚で、足置はガラス製の菊の御紋です。鳳凰が舞う姿を彫った譜面台など大変手の凝ったものです。
「父が、発売と同時に甲府の内藤楽器から買ったものですが、それが大変でした。友人の小野先生が、ピアノを買ったことを聞きつけて、怒鳴り込んできたんです。」「お前は、娘を歌うたいにする気かって。そんな時代だったんですよ」と純子さんは遠くを見るように語ってくれました。
 私の記憶では、昭和30年代の甲府でも、近所でピアノがある家は数軒だったように思います。杉浦3姉妹が、ピアノに向ってお稽古を始めると近隣の子どもたちが応接室東側の窓下に集まり、「背伸びして覗いたもんだ」と近所のFさんが話してくれました。
「車もない時代だから、めずらしピアノの音は、かなり遠くまで聞こえたなあー」と。

*1階応接室に当時のままの「記念ピアノ」があります。