2012年4月27日金曜日

杉浦醫院四方山話―138 『薄葉重氏と虫こぶ』

先日、埼玉県から来館された男性二人組。来館者名簿にご記入いただいたお名前「薄葉重」を拝見して、反射的に浮かんだのが詩人茨木のり子の「人名詩集」の一編でした。

 「薄葉」に「重」ときっかり「おもし」もつけて「しげる」の親心、茨木のり子の手にかかれば、どんな詩になったか・・と思うと、薄葉重先生、勝手をすみません。


案内しながら「医学関係者かな」と感じる視点の鋭さに「寄生虫がご専門ですか?」と尋ねると「寄生虫も虫ですからまあ、仲間でしょうか。専門は生物で、昆虫ですかね」とさりげなく。「じゃあ、養老先生と同じ虫屋ですね」「薄葉先生は、虫こぶの研究者です」と同行の弟子が教えてくれました。「虫こぶ?木についている貝のような」「あれは、カイガラムシです。こぶのある葉や幹があるでしょう。アレは、虫が入り込んで出来るんですが、植物はこぶを作って身を守り、虫はこぶの中で生きるというか・・」「共存共栄ですか?」「うーん共存というか・・」、答えようもない間の抜けた質問にも誠実に対応いただき、虫談議になりました。「日本の昆虫標本は、採集した本人が亡くなると外国に流出してしまいます。日本には標本を管理しながら展示する博物館が皆無に等しいので、高値で購入してくれる外国に家人が売ってしまうんですね」と云うように興味深い話を惜しまず教えてくれました。昆虫でも蝶やクワガタはメジャーですが、初耳の方も多い「虫こぶ」という超マイナーなジャンルを選択し、その道一筋に生きてきた学者が醸す、えも言われない風格は、独自の学問世界を構築すると共に愉しんできた余裕からでしょうか。
高校生物の教科書はじめ著書も多数ある薄葉重先生、著書「虫こぶ入門」で学習しておきますので、是非またのお越しをお願いします。

2012年4月25日水曜日

杉浦醫院四方山話―137 『登録有形文化財(建造物)』

当館の建造物五件が国の登録有形文化財になります。国の文化審議会が文部科学大臣に答申

平成24年4月20日(金)に開催された国の文化審議会は、当館敷地内の五つの建物を国の登録有形文化財(健造物)にするよう、平野文部科学大臣に答申しました。今後、官報で告示され正式決定し、それぞれの建物に上のようなプレートが授与されます。町内には、国指定の文化財はありませんでしたが、5件の国の登録有形文化財が同時誕生しますので、各建物を写真でご紹介します。「百聞は一見に如かず」です。お気軽に見学にお越し下さい。
①明治中期建築の杉浦家母屋
②母屋に連なる屋敷蔵
③貴重なL字型納屋
④明治・大正期の典型的な土蔵
⑤健造・三郎父子が地方病の研究・治療にあたった昭和初期建築の医院棟
 当ブログでもご紹介していますが、杉浦家からは、建造物以外にも有形な文化品を多数引き継いでいますので、今後は、書画骨董から医療機器等まで、登録も視野に整理活用を図ってまいります。

2012年4月20日金曜日

杉浦醫院四方山話―136 『硯(すずり)・硯箱―3』


 上の写真は、数ある杉浦家の硯の中で、共通して蓋付きの硯三組です。左の硯は、蓋だけですが右の二組は、硯が納まる下箱も付いています。それぞれの蓋も下箱も硯の形状に合わせてですから、硯が出来上がってから彫って作られたものでしょう。
雨畑川沿いの上流には、雨畑硯のそれぞれの製造元の採石場となる岩壁をくり貫いた洞窟があるそうです。そこで「雨畑硯」を作るための原石となる粘板岩を採掘しますが、この原石の質で、硯の良し悪しは決まるそうです。墨がよく下りる硯の石は、石の粒子が均一の石で、そういう良質な石は、雨畑でも至る所にある訳ではなく、一見同じに見える岩でもプロが見ると使える部分は、極限られているそうです。
 木の工芸である硯箱に石の工芸・硯が納まる訳ですが、日本では硯は、長く書道に使う四角いものが主流でした。これは、墨を磨って文字を書くという文具としての実用性としての硯ですからもっともなことでしょうが、近年、鑑賞用の硯も美術工芸品として出品されることも多くなりました。雨畑硯の現代作家・雨宮彌太郎氏も「ただ硯をみただけで心が落ち着くような造形美も、ひとつの硯の形として追及していきたいと考えています」と書いています。杉浦家の硯や硯箱は、撫でてみたくなるようなきめ細かな材質やシンプルにして飽きないデザインなど工芸的にも鑑賞に価しますので「杉浦家の硯・硯箱展」を企画して公開いたします。

2012年4月19日木曜日

杉浦醫院四方山話―135 『硯(すずり)・硯箱―2』

 「これが、硯箱とお揃いの小箱ですが、墨や水差しを入れるものなのか・・・」「ハンコ入れや煙草入れにもなりそうですね」と、純子さんが朱塗りの小箱を探して下さいました。
前話の硯箱と同じ細工の台座が付き、朱の色合い、光沢も全く同じですから、純子さんの言うとおりお揃いのものです。手にとって蓋を開け閉めしてみると百年以上の歳月を経ても寸分の狂いもなくピタッと開け閉めできる精巧な造りに驚きます。
左下の写真は、箱の裏で正確な蓋の開閉を掌っている二つの真鍮製蝶番(ちょうばん)です。右下の写真は、箱の前面にある同じ真鍮の錠前で、蝶番と同じデザインで統一され、丁寧な造りのアンティークの良さが伝わってきます。
 アンティークと言うとヨーロッパがご本家のように思いますが、日本でも何代にも渡って使われてきたアンティークはたくさんあります。アンティークの良さは、その一つ一つにそれを使ってきた人々の人生が裏打ちされていることでしょうか。杉浦家のアンティークには、杉浦家の「物語」が内包されています。
例えば、これまで紹介してきた数々の杉浦家所有のアンティークは、杉浦家の方々が長く使える良いモノを購入して、それを大切に受け継いでいくという生活の仕方が基本となっていることを物語っています。結果的に「良いものは長く使えるのでエコだ」と云う現代的な意識にも合致します。職人の手の温もりが伝わってくるような素朴な味わいを良しとして、自然の風合いを大切に長年使い込むことでより馴染み、愛着も深まることで簡単に処分できなくなるという循環が出来上がってきたものだと思います。
 作られた時代の生活や文化も語り継がれる中で、モノ自身の物語が生まれ、その物語が長い間に様々な人によって引き継がれることで、一層豊かな物語を持つアンティークに成長していく訳ですから、『アンティーク』と『人』は、一体であることも物語っています。

2012年4月14日土曜日

杉浦醫院四方山話―134 『硯(すずり)・硯箱―1』

   日本の硯の4大産地の一つが山梨県早川町雨畑です。雨畑一帯で採れる玄晶石という粘板岩の材料石は、程よい黒の輝きを放つことでも人気です。最も歴史のある硯は、宮城県石巻市の雄勝硯ですが、3・11の東日本大震災で石巻市旧雄勝町地域は大きな被害を受け、生産が途絶えてしまい現在は入手困難になっているそうです。津波被害は、水産業や工業と云った基幹産業のみならず、小規模地場産業には生産の目途も立たない大打撃となっているようです。
 杉浦家の硯は、全て雨畑硯です。代々日常的に使っていた硯と硯箱が右の写真です。朱色の漆塗りの硯箱は、ご覧のように台座もある工芸品です。この台座の四隅上下計8か所には、金具が打たれています。同じ彫金の金具が縦と横4面にも上下に埋め込まれ、蓋箱との兼ね合いで補強の金具と云うより装飾金具であることが分かります。全て彫金師の手による、手作りの誂え金具でしょう。
「これは、祖母たかのものだと聞いていますから、100年以上前の硯箱ですが、私も普通に使ってきましたが、手触りが段々良くなってくるのが分かりました」と純子さん。たかさんから娘の綾さんを経て純子さんへと杉浦家の女性が三代に渡って日常品として使いこんできた文具。
ゴミのように溢れかえるボールペン類等々からアット云う間に消え去ったワープロ。パソコンも某社の陰謀だろうと勘繰りたくなる目まぐるしいOSの進化?による交換など現代文具は使い捨てが主流です。地方の街々にあった文房具屋や万年筆専門店も消えて行き、地方の「文具フェチ」は、ネット購入が主流だとか・・・
 職人の確かな技で延々と彫り、組み立てられ、塗られた硯箱が代々引き継がれ、多くの墨文書や手紙に愛用され、その使命を全うしている硯箱は、ノスタルジーを超えた古き良き時代の美術工芸品であり文化遺産であることを物語っています。「そうそう、この硯箱とお揃いの小さな箱がありました。少しでも目が見えるうちに探しておきますから」と・・・

2012年4月13日金曜日

杉浦醫院四方山話―133 『ホタルー4』

 昨日、桜吹雪舞う庭園の池に杉浦医院内で飼育していたホタルの幼虫を放流しました。 右の写真のようにしっかり成長した幼虫です。
釣りをする方なら喉から手が出そうな上等な生き餌ですから、池のザリガニには久し振りのご馳走になります。ザリガニがいないだろう滝壷へホタルクイーンの手で放たれました。
幼虫は、今月末の雨降る夜、水中から這い上がり土の中に潜ります。愛護会の若尾会長宅にあるホタルドームでは、例年この上陸を若尾会長が確認しています。幼虫は光を放ちながら上陸しますので、水から陸へと一斉に動いて行く光景は、幻想的で、雨の中で上陸をじっと待つ苦労も忘れさせるそうです。
 同様にホタルの卵も光ります。真っ暗な川で、石苔に産卵した卵が光っているのに出くわすと「ひかりごけ」が連想され恐怖感すら抱きます。
冬の寒さを取り返すかのように温かくなってきましたから、昭和の源氏ホタルも例年並みのサイクルになりそうです。上陸して繭になった幼虫が、成虫として舞い出すのは5月25日前後からでしょう。長くて2週間という成虫としてのホタルの短い命。それは種を残す為にだけ与えられたかのように求愛のシグナルとして明滅を繰り返しては交尾、産卵して消え去ります。このように桜の散り際のよさにも似たホタルは、江戸時代から初夏の風物詩として人気でした。地域の方々にも楽しんでいただけるよう6月初旬に「杉浦医院ホタル観賞会」を開催します。昭和町内各所でホタル発生情報が飛び交うよう地道な活動を続けている愛護会に興味のある方は是非入会し、共にホタルの里復活に汗を流しませんか。ホタルクイーンは、4月から当館職員として勤務している若林ゆさです。どうぞよろしく。

2012年4月11日水曜日

杉浦醫院四方山話―132 『ホタルー3』

 鎌田川ホタルの部 ブログというサイトがあります。これは、2年前甲府青年会議所(JC)のメンバーが、昭和町を舞台に昭和町源氏ホタル愛護会と協働で「ホタル舞う奇跡のまちづくり」をテーマに取り組んだ活動を経て生まれたものです。「JCは、一年だけの花火事業で信用できない」との声もありましたが、中心メンバーは愛護会会員になり愛護会活動にも参加しています。JC卒会後「NPO法人楽(ら)空(く)」を立ち上げ、この中に「鎌田川ホタルの部」を作って奮闘しているのが古屋哲さんです。昨年も自社で「昭和町源氏ホタル観賞ガイドMAP」を作製して、町内のホタル・スポットの周知を図ってくれましたが、「今年はさらに改良を加えたMAPを」と、町のブログ・マスコット≪ほたるん≫を使って、ホタル発生スポットの撮影を始めました。詳細は、上記ブログをご覧いただくとして、7日(土)に杉浦醫院にも見えましたので、一部をご紹介します。
↑ 杉浦醫院に到着です

ちょっと寄り道して、西条新田坂田邸の
「人間魚雷」を見学してきました(笑)


ちょうど信玄公祭りの
日だったので館長が兜を
作ってくれました。(^_^) 
 「鎌田川に蛍を呼び戻そう!鎌田川下流に新しく出来るリニア甲府駅をホタル舞う駅に!」そんな気持ちで活動していきたいと話す古屋さんは、広告代理店の青年?社長ですが、マンガ家志望だったと云うだけあって「ほたるん」の活かし方も上手いものです。今年の昭和の源氏ホタルと共にほたるんマップも楽しみですが、民間補助金を申請しての作製などホタル復活を願う方々の様々な取り組みとの協働推進の必要性を痛感する今日この頃です。

2012年4月6日金曜日

杉浦醫院四方山話―131 『ホタルー2』

  「昭和町源氏ホタル愛護会」は、ホタルの名所・鎌田川の復活を願って活動を続けて四半世紀になります。今年も3月27日に「ホタル幼虫放流式」を押原公園で開き、愛護会会員のみなさんと押原保育園の園児が、昨年の6月から10ヶ月間飼育してきた幼虫を町内各所に放流しました。
 杉浦醫院でも幼虫の飼育水槽を置き、ホタルの幼虫飼育の実際を見学いただいていますが、ホタルの餌であるカワニナとミヤイリ貝の違いについても実物で分かるよう、標本のミヤイリ貝を一緒に展示しています。
当ホームページのリンクにある「ウィキペディア フリー百科事典 地方病について」は、ウィキペディアンと云われる執筆者が自由に執筆、加筆、修正して載せているインターネット上のオンライン百科事典です。検索項目によっては、全くアテにならない内容もあり、無料であることから「ウィキペディアはだめだ」の評価も聞きますが、「地方病について」のウィキペディアンは、大変誠実かつ熱心な勉強家の方で、何度か当館にも足を運び豊富な内容と正確な記述で、他を圧倒していると私は評価してきました。
 上記写真の水槽右にミヤイリ貝の説明とシャレーに入った標本が見えますが、「地方病について」のウィキペディアの中でも下記のとおり紹介されています。


昭和町で採取されたミヤイリガイの標本。対比のため50円玉を並べて撮影した。標本化のため脱色している。風土伝承館杉浦醫院所蔵。(2011年10月撮影)



ホタル愛護活動同様、こういったボランティア精神溢れる方々との協働で、より正確で信憑性のあるオンライン百科事典を創り上げていくことにウィキペディアの意図と意義があるのでしょう。

2012年4月5日木曜日

杉浦醫院四方山話―130 『ホタルー1』

この2枚の手ぬぐいは、杉浦家が反物で注文して、近所の農家から野菜などいただいた折にその場で切ってお礼の品にしていた手ぬぐいです。「普通の手ぬぐいより大きめだったことから、使い勝手が良いと喜ばれました」と純子さん。

白地に紺というオーソドックスなお洒落な色合いにホタル舞う図柄と味わい深い「ホタルの里 杉浦」の文字が見事です。このようにかつての昭和町は、「源氏ホタルの里」でした。8代目杉浦健造博士は、伊藤博文の侍従医小澤良斎医師のもとで修業し、医業開業免許状を得ましたから、横浜の中心・野毛で修業時代を送りました。この横浜では、お腹が膨らんで痩せ細る地方病特有の患者は皆無だったことから、山梨に限った病気である可能性があると、原因不明で奇病とされていた地方病の原因究明に立ちあがりました。「地方病の患者の多い地域には、必ず初夏にホタルが乱舞する」と、ホタルのエサであるカワニナと地方病の因果関係についての健造先生の仮説が、後のミヤイリ貝発見に繋がったと云われています。
 江戸末期に都々逸坊扇歌が大成した口語の七・七・七・五の定型詩は、三味線と共に歌われる「都々逸(どどいつ)」として、寄席や座敷芸で現代にも受け継がれています。男女の恋愛を歌ったものが多かったことから情歌とも呼ばれていますが、この都々逸(どどいつ)の傑作のひとつに「恋に焦がれて鳴くセミよりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」があります。また、閑吟集にも「我が恋は、水に燃え立つ蛍々、物言わで笑止の蛍」もあり、「忍ぶ恋」が恋の原型で、物言わず恋い焦がれる忍ぶ恋の象徴としてもホタルは欠かせません。