杉浦醫院調剤室の机には、医院で使用していた封筒類が2種類残っています。古い茶封筒には、「杉浦
醫院」「電話(甲府)3071」と印刷されています。もう一つの「内用薬」と書かれた薬袋には、「杉浦
医院」で、電話も055275-3〇〇〇と現在も杉浦家が使用中の番号が記されています。これを基に純子さんに「電話」の話を伺うと、「祖父健造は、初孫でうれしかったのでしょう、親戚の錦町の市川歯科に行くとそこから必ず私に電話をしてきました。私が4、5歳だったとおもいますから、昭和5年頃には、家に電話があったことになります」 「そうそう、家に電話を引くためには、電柱を寄付しないと引けないということで、何本寄付したのかは知りませんが、電柱を寄付したと言っていました」「今は、部屋にはなっていませんが、テーブルのある部屋から屋敷蔵に行く廊下の角が、電話室でした。部屋に入って、電話機の横をぐるぐる回して、電話機に向かって話したんですよね」と(甲府)3071の思い出を話してくれました。
取材によく来る山日新聞Y記者の実家が郵便局だと聞いていたので、「昔の郵便局は、電話局も兼ねていたようだけど」と尋ねると「いやぁー、それはないと思いますよ・・」と若い彼は知らないようなので、「お父さんに聞いて確かめておいてくれ」と頼むと、折り返し「やっていたそうです。櫛形に小笠原局があったそうです」と。中巨摩郡西条村の杉浦家が(甲府)局で(小笠原)局でないのも釜無川を越えての電話線引き込みより、甲府の方が近く、寄付する電柱も少なく済んだ為でしょうか。
「その後、(甲府)2474に変わって、病院と母屋で切り替えが出来るようになりました」「夜、看護婦室に住み込んでいた運転手さんが、勝手に病院に切り替えて、彼女と長電話していた時、県の医学研究所でボヤがあって、職員が父に何度電話しても繋がらなかったということもありました」「昭和局30番という電話が入った時もありました。有線電話だったのか、その頃、この辺でも一斉に電話を引く家が増えました。」と、杉浦家の電話番号の遍歴とエピソードを聞くことができました。
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旧甲府郵便局で、後の甲府市庁舎4号館
昭和4年7月着工 (山田守建築作品集より) |
写真の旧甲府郵便局は、日本の近代を代表する建築家
山田守氏の作品です。等間隔に窓を連続させたシンプルかつ機能性重視のデザインとして建築史上に残る作品ですが、解体が決まりました。昭和4年着工ですから、杉浦医院と同じ時期の建造物で、もったいない!