アメリカが、イラン・イラク戦争後のイラン国内での反米運動の盛り上がりに手を焼いていた時でした。
色川先生は、「現在のアメリカには、ベトナムでもイランでも終戦後までを見通しての余裕がない。
東西ドイツや南北朝鮮のように分断されなかった日本の戦後は、アメリカが、こんなところまでという位、ち密な情報収集と降伏後の日本の統治政策を研究していたことにつきる」と指摘していたのを思い出しました。
マッカーサー最高司令官を訪問した昭和天皇 1945年(昭和20年)9月27日撮影 |
当然、「徹底抗戦」を唱える日本軍も各地に残留し、一般国民も「鬼畜米英」のマインドコントロール下、米軍の進駐を不安に思っていた極めて不安定な情勢の中での訪問は、色川先生の指摘どおり、終戦前からの周到な調査と準備により、計画されていた訪問だったのでしょう。 この訪問を機に東京に本部を置く進駐軍の「406医学総合研究所」と杉浦医院の共同研究や研修医の受け入れが始まり、杉浦医院には、アメリカ人医師が入れ替わりで泊まり込み、三郎先生から治療法を学んでいったのです。
現在も医院玄関左側には「英字看板」が残り、アメリカ人研修医受け入れのために改装した1階北側のタイル張りの「洗面所」が、当時の面影を残しています。
この杉浦医院で学んだアメリカ人医師が、後に家族を連れて杉浦家を訪問したり、手紙や写真の交換など、家族ぐるみの交流が続いていました。杉浦家は、戦後の日米友好を築いた民間国際交流の草分け的存在といっても過言ではありません。
*杉浦家に贈られた「406医学総合研究所」の法被が、1階展示コーナーにあります。
*杉浦家に届いた数多くの「エア・メール」も展示中です。