2010年11月11日木曜日

杉浦醫院四方山話―4 『寄生虫列車』

 廃線や消えゆく電車をカメラに収めようという鉄道ファンが話題になっていますが、その「鉄っちゃん」「鉄女」も知らないであろう列車が、かつて甲府駅にありました。人呼んで「寄生虫列車」です。
敗戦後、進駐した占領軍は、RAILWAY TRANSPORTATION OFFICEという名前の鉄道運輸司令部を置き、占領軍専用列車とダイヤを組み、将兵たちは公用、私用でこれを使って日本国内を移動していました。すし詰めの買い出し列車や窓の破れた電車で圧死者も相次いでいたのが当時の日本の鉄道状況ですから、日本人を尻目に「優雅」で「快適」な移動も勝者の常だったのでしょう。
 
この「寄生虫列車」は、杉浦醫院なくして甲府駅に常駐することはなかった列車です。
寝台車、食堂車、サロン車はもとより研究室車両や事務室車両からなる「長い列車だった」といいます。フィリッピンなどを占領したアメリカの将兵が、現地で寄生虫の感染症に悩まされていたことから、進駐軍は、アメリカの医者や研究者を杉浦医院で研修させ、日本住血吸虫症などの寄生虫病の研究をこの列車内で行ったのでした。
進駐軍鉄道運輸司令部が、研究用に特別列車を仕立て、甲府駅に常駐させて、地方病研究の先駆者杉浦健造・三郎父子の杉浦医院に指導を乞うたのです。目的に応じて、移動も寝泊まりも食事も研究も・・「快適」にできる自前の施設を列車で造り、必要期間、駅に常駐させたというアメリカ合理主義の象徴的な列車ですが、甲府を始め、全国の主要な都市は、空襲で焼け野原だったわけで、満足なホテルや旅館もないことからすれば、素早い対応策でもあり、これも勝者の「余裕」といった感じです。
 この「寄生虫列車」での研究には、杉浦三郎氏の三女・三和子さんや山梨県立医学研究所の飯島利彦氏、慶応大学の大島ゆりさんらも加わり、日米の共同研究で大きな成果を残し、地方病終息へ大きく貢献しました。
西条新田からこの「寄生虫列車」に通っていた三和子さんは、「食堂車では、スープや洋食のハイカラな食事を食べていたようです」と姉の純子さんが楽しそうに思い出していました。

*飯島利彦著「ミヤイリガイ」(昭和40年山梨寄生虫予防会刊)が2階展示コーナーにあります。
*「寄生虫列車」の詳細を記録した宇野善康著「イノベーション開発・普及過程」も展示中。