2013年8月30日金曜日

杉浦醫院四方山話―268 『浮世絵師・中澤年章-3』

 南アルプス市の桃源美術館には、中澤年章画伯が描いた「若尾逸平一代記」と云う屏風絵が展示されています。山梨県立美術館にも中澤作品のコレクターだった旧武川村の故中山嘉明氏が寄贈した作品が多数収蔵されているそうです。

独立間もない頃の中澤年章浮世絵作品 「日清交戦寿語禄」 早稲田大学蔵
平成の大合併で、中澤年章の生まれた旧田富町は中央市になりましたが、中央市教育委員会と旧田富町文化協会郷土研究部の主催で、中央市生誕記念展として「郷土の浮世絵師・中澤年章展」が平成18年4月末から5月にかけ、田富図書館ギャラリーで開催されました。

 田富町文化協会郷土研究部の樋泉明氏は、その記念展に向けて中澤年章の資料を集め、上記のコレクター中山嘉明氏との作品貸し出しの交渉等にあたるなど中心になって企画した方です。
杉浦醫院版「俺は地方病博士だ」の新聞報道を機に中澤年章について、樋泉氏から多々ご教示をいただくとともに記念展開催時の資料が存在することも知り、中央市教育委員会のI氏から、そのコピーを頂戴することもできました。その資料等から中澤年章画伯の足跡をたどってみます。

  
 前話でも画号「年章」の由来等にも触れましたが、江戸末期の生まれの年章が、明治18年22歳で、実弟に家を任せ、妻とも離縁して上京し、歌川派の大家・月岡芳年に師事し、師亡き後、浮世絵師として独立したのが、明治20年代だったことが、年章のその後に決定的な影響を及ぼしたようです。

 浮世絵は、浮世絵師が描いて、彫り師が彫って、刷り師が刷るという分業によって出来上がる日本の伝統文化だった訳ですが、年章が浮世絵師として独立するや、西洋から「石版写真製版」と云う新しい印刷技術が入ってきたことで、浮世絵は旧来の印刷技術であることから、すっかり衰退しまい、絵師たちは活躍の場を失ったと云う不運な歴史と重なり、中澤年章は「最後の浮世絵師」とも呼ばれたようです。

 写真の早稲田大学に残る代表作「日清交戦寿語禄」のように浮世絵師としての才能を高く評価されていた年章は、「浮世絵の衰退」と云う時代の波で悲哀を味わい、明治31年失意のうちに帰郷しました。
中央画壇や浮世絵とも離れ、新たに肉筆画の画家として再スタートを余儀なくされた年章は、甲府市、韮崎市、豊富村、武川村などの知人を頼って、転々としながら筆を握り、当時の風俗や人物画、美人画などを描き続けたそうです。