2012年6月25日月曜日

杉浦醫院四方山話―152 『梅雨閑話』

純子さんの「蛇の目傘」についてお伝えしてきましたが、書きながら自然にメロディーと共に出てきたのが、≪あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン≫の童謡「あめふり」です。
現代では、「折りたたみ傘」や「車でおむかえ」が日常化して、この童謡の世界やフレーズに郷愁を感じるのは、やはり過ぎ去った遠い昔を懐かしむ懐古趣味と云う事でしょうか。
映画にもなった「瀬戸内少年野球団」の作家、悪友こと阿久 悠は、森進一や石川さゆりなど多くの歌手の作詞家としても名作を残していますが、基本は、故郷や過去を懐かしむ「ノスタルジー」で一貫していたように思います。例えば、都はるみの「北の宿から」や小林旭の「熱き心に」など、阿久 悠流の女心・男心で、上野千鶴子女史をして「そんな女いるわきゃねぇー」と毒づかせるだけのインパクトがありました。この阿久 悠作詞で、八代亜紀が歌った「雨の慕情」で繰り返された「雨雨ふれふれ もっとふれ 私のいいひと つれて来い」は、童謡「あめふり」の焼き直しであることは明白ですが、「大人の童謡」として「舟唄」と共に歌い継がれていくことでしょう。いやいや、上野センセイに叱られそうですから、「男の願望童謡として」に書き改めておきましょう。

―閑話休題―

 純子さんのお出かけは、着物でしたから、蛇の目傘は不可欠でしたが、この梅雨時など当然履物も雨用が必要になります。雨の履物と云えば、重ね重ねの懐古趣味で恐縮ですが、童謡「雨」も紹介しておかないと片手落ちの感がしますので・・・おつきあいください。 歌詞は以下の通りです。 
 ≪雨がふります雨がふる  遊びにゆきたし傘はなし  紅緒のかっこの緒が切れた≫
日本の童謡ですが、注釈が必要になる時代になってきた感もしてきました。「かっこ」は、「下駄(げた)」の幼児語でしょうが、そのまま「下駄の緒」では「下駄箱」行きで、この歌の良さは半減どころか・・・ですね。詩人・北原白秋の作詩ですから、当時「下駄」のことを「かっこ」と子どもたちが云っていたかどうかも不明ですが、確かに幼児が小さな下駄を履いて歩くと「かっこ かっこ」としそうです。日本語は、「ドキドキ」「ヒューヒュー」「キョロキョロ」「しっぽり」・・・と云った擬声(音)語や擬態語を詩人や作家が、たくさん造語して豊かにしてきた「オノマトペ」の言語でもありますから、「かっこ」も北原白秋の造語かも知れません。
 下駄は、「歯」と呼ぶ地面に接する突起部と「眼」と呼ぶ3穴で止めた「鼻緒」で構成されていますから、「紅緒のかっこ」は、右の写真のように赤い鼻緒の下駄で、「緒が切れた」は、緑の部分が切れて、うっとおしい雨に傘もない上に下駄までも・・・という雨を憂う少女の心情でしょう。そう云えば、吉田拓郎作詞作曲の「我が良き友よ」の導入も「下駄を鳴らして 奴が来る 腰に手ぬぐい ぶら下げて」と、懐古調ではありますが、共感するフレーズの数々に、世代を超えた普遍性も感じるのですが・・やっぱオジンの証明か。