屋敷蔵や土蔵、納屋といった保管場所が確保されていたとはいえ、杉浦家代々の保管力には驚きます。書画骨董や着物、帯から思い出の写真、手紙は元より領収書類も多数残っていることから、今となっては貴重な具体的な歴史をたどる足掛かりにもなります。
今日整理していた「註文請書(ちゅうもんうけしょ)」は、昭和35年6月14日付けと、ちょうど52年前の今日ですから、興味深く見てみました。ご覧のように山梨トヨタが、三郎先生にRS20クラウンを納品するにあったっての請書です。
RS20クラウンと云えば、以前文化協会写真部長磯部さんの旧車コレクション倉庫で見せていただいた「観音開きクラウン」です。
観音菩薩像を納めた厨子の造りが、中央から左右対称に開く両開き扉だったことから「観音開き」と云われ、仏壇や門などでは一般的ですが、自動車では、RS20クラウンで初めて採用されました。
しかし、観音開きの後部座席ドアは、進行方向に向かって開く構造ですから、走行中ちょっとでもドアを開けようものなら風圧でパーンと開いてしまい、アメリカの安全規制に引っ掛かり、この形式のドアは自然消滅してしまいました。乗り降りのし易さの良さから、このクラウンに標準仕様になった訳で、三郎先生のように運転は運転手にまかせ後部座席が専用シートの場合は、非常に使い勝手の良いドアだったと思います。現在では、ルノーカングーと改造霊柩車のトランクドアに使われている位でしょうか。このクラウンが791,000円とありますが、昭和35年入社の甲府信用金庫の初任給が7,500円位だったと言いますから、およそ100倍の観音開きクラウンは、後部座席に子どもを乗せて・・と云ったユーザーは想定せず、おかかえ運転手ユーザーに的を絞ったトヨタの戦略だったのかも知れません。当時、開業医の往診用の車として「医者のダットサン」と呼ばれたダットサン211型が有名ですが、三郎先生はダットサンからルノーを経て、RS20クラウンに乗り継いだことが、この請書から分かります。