日本住血吸虫症の解明は、1897年(明治30年)の杉山なか女の解剖で新たな寄生虫の卵が発見されたことから、この虫卵を産む虫体の発見へと進みました。
7年後の1904年(明治37年)4月9日に、岡山大学医学部の前身である岡山医学専門学校の桂田富士郎教授は、流行地甲府盆地の開業医・三神三朗医師の協力を得て感染したネコを解剖し、臓器を岡山に持ち帰り、5月26日にその門脈内から新しい寄生虫を発見しました。
また肝組織内に患者の糞便に見られたものと同一の虫卵も発見し、さらに7月に再び三神氏宅でネコを解剖し、門脈から多数の雌雄異体の吸虫を検出しました。この虫体は、世界で初めて日本で発見したことから、桂田氏と三神氏は「日本住血吸虫」(Schistosoma japonicum )と命名し、世界の学会で認められました。
世界には多数の寄生虫が存在しますが、住血吸虫は、「日本住血吸虫」と「マンソン住血吸虫」、「ビルハルツ住血吸虫症」の3種類が主なものです。
「マンソン住血吸虫」と「ビルハルツ住血吸虫症」の名前は、それぞれ発見者のイギリス人マンソン氏とドイツ人ビルハルツ氏の名がそのまま虫体の名前になっていますが、桂田氏と三神氏は、敢えて、自分の名を残すことを避けたそうですから、二人はその辺の価値観や感覚、センスも共通していたことから意気投合して、共同研究を進めたのでしょう。
そんな二人ですから、この偉業を顕彰していくにふさわしい記念碑等の存在も不明ですが、現甲府市大里町にある「三神医院」に隣接する旧三神医院敷地内には、三神三朗氏の息子・寿氏が三朗氏の死後、1955年(昭和30年)に建てた「日本住血吸虫発見の記念碑」が、控えめに建っています。
明治三十七年七月三十日 此の地に於て始めて日本住血吸虫が発見された。三神三朗 |