これまでも遠路来館いただいた方から「山梨県内で他にもこの病気の施設はありますか?」と尋ねられたこともありましたが、「ダーク・ツーリズム」の具体化を構想していくと山梨県内の地方病関連碑についての紹介は欠かせません。
先ずは、虫卵発見につながった「杉山仲女之碑」をご紹介します。
この碑は「紀徳碑」と銘打たれていますが、甲府市向町の盛岩寺境内にあります。
建設者は、なか女の主治医であった吉岡順作氏が所属していた東八代郡医会で、明治43年6月建立ですから明治30年に亡くなったなか女の死後15年後になります。
縦書きの碑文は、全て漢字 で以下の文が彫られています。
紀徳碑
紀徳碑何為而建也念賢婦杉山氏之徳而建也杉山氏名仲甲斐国西山梨
郡清田村人為人貞淑而動敏其夫日武七業農民助之乗相従事畝間程好
不怠治家訓子女亦可観甲州有奇疾称地方病病原不良医亦来手
患之者多姥死民亦罷之嗣子源士口看護療養九三葛袋詳及疾篤其族嘱
之日五口不幸臥尊命在旦夕闇斯病不流行地州而独禍我郷国然未能明其
病原是可憾也吾死之後母以供仏語経為特解剖屍体以資病理研究之用
此事而遂功吾願足交言畢遂不起実明治三十年六月某日也享年四十有
凡東八代郡同盟医会従其遺言於成田岩寺銭域設壇操万制其屍啓斯病研
究之端爾来刀圭家研鎖十五年而始有日本住血吸虫病之創見馬顧在当
時弱者戟張之男児猶且厭忌解体而陛之況於茜裾荊叙繊弱之人其畏怖
果如何也而氏則毅然委其遺体為斯病解屍之鳴矢欲隣斯民於仁寿之域
不賢而能至平此哉頃者吾医会育謀伝遺徳干不朽立碑紀其事系以銘
銘自助夫治家死後体状慈恵愈磐
徳仏不忘
従四位勲三等熊谷喜一郎家額
明治四十五年壬子六月上滑東八代郡同盟医会建之
杉山なか女は、死後の自らの体を解剖して、この奇病の原因究明に役立ててほしいと、献身的に治療にあった吉岡順作氏に申し出たそうです。生前、患者が自ら解剖を申し出ることは皆無だった時代でしたから吉岡医師も涙したそうですが、家族と共に彼女の願いを聞き取り文章にし、1897年(明治30年)5月30日付けで県病院宛に『死体解剖御願(おんねがい)』を親族の署名とともに提出しました。
『死体解剖御願(おんねがい)』
「私はこの新しい御世に生まれ合わせながら、不幸にもこの難病にかかり、多数の医師の仁術を給わったが、病勢いよいよ加わり、ついに起き上がることもできないようになり、露命また旦夕に迫る。
私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。」
—死体解剖御願、杉山なか。
明治30年(1897年)5月30日
このは解剖願いを提出した6日後の6月5日になか女は亡くなり、遺言通り翌6月6日午後2時より、県病院長下平用彩医師執刀の下、杉山家の菩提寺である盛岩寺で吉岡医師ら4名の助手を従え解剖が行われました。
杉山なか女の死体解剖は、現代の「献体」にあたるものでしょうが、山梨県では初の病理解剖だったそうですから、ここでも「男より女の方が・・・・」の感を強くします。
私は齢50を過ぎて遺憾はないが、まだこの世に報いる志を果たしていない。願うところはこの身を解剖し、その病因を探求して、他日の資料に供せられることを得られるのなら、私は死して瞑目できましょう。」
明治30年(1897年)5月30日