2015年1月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―393『肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗-2』

 世界文化遺産になった現在の富士山は、約5千年から1万年前に形成された姿で、その下には約70万年前から噴火したと言われている小御岳(こみたけ)火山と約10万年前から噴火していた古富士火山があり、この古代富士の形は現在のような左右対称に裾野が広がる優雅な円錐形ではなかったというのが通説ですが、誰もどんな形であったかは特定できない以上、一回り小さな円錐形の古富士を描きたくなるのも自然でしょう。


 この古富士を取り巻いていたのが「せの海」と呼ばれた広大な湖で、名前のように海のような広さでしたが、現在の富士山に至る噴火の溶岩流で「せの海」は全て埋め尽くされたそうです。

 現在の精進湖と西湖は埋め立てを免れた西端と東端で、流れ出た溶岩はせの海一帯を広く覆い「青木ヶ原溶岩」を形成し、その後この溶岩の上に新たに森林が生育して、現在の「青木ヶ原樹海」となっているわけですが、「樹海」も下に眠る「せの海」の「海」から来ているのでしょう。


 全11客の「肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗」は、ご覧のとおり純白に青の繊細な器です。

 平戸焼は、肥前国平戸藩松浦家の庇護の下で、松浦家の御用焼として焼成された陶磁器で、特徴は純白な肌に御用絵師の緻密な絵付けと細工・彫刻で知られる多種多様の技法が他窯では見られない至芸と言われているようです。

 

 松浦家が一貫してこの平戸焼きを補助し続けたのは、4代藩主松浦鎮信が茶道・鎮信流(ちんしんりゅう)を立ち上げた茶人でもあったことから、藩主好みの繊細優美な神経が隅々にまで行き届いた陶磁器として、現在も愛好されているそうです。


 杉浦コレクションのこの碗は、彫刻された古代富士が「透画」と表示され、その古代富士の周りには「せの海」の波と航行する船が青く描かれ、「御飯茶碗」ですが、薄く小ぶりの品の良いつくりを一層際立たせています。この船舶数からも幻の富士王朝の栄華が偲ばれるようでもあります。

 

 茶会の主催者が来客をもてなす料理が日本料理の「懐石」ですから、一服の茶をたしなむ方々の「御飯茶碗」は、このように余韻の残る器でなければならなかったのでしょう。

 深遠な茶の世界は、とどまることを知らない奥深さで、矢張りお殿様でなければ追求できない世界でもあるようにも思いますが、昭和村西条で人知れずこの手の名品を蒐集してきた杉浦家の美意識も矢張り世間とは屹立したものだったのでしょう。

そうそう、田吾作は、懐石を弁当にしたものを「点心」と呼ぶことも今回初めて知りました。