2015年1月8日木曜日

杉浦醫院四方山話―390『時事新報』

 代々、杉浦家の建造物を手掛けてきた東花輪の橋戸夫妻が、年末に純子さんが生活している母屋の掃除や正月飾りにみえ、人形作りが趣味の夫人からは、今年も前話の写真のように干支の人形をいただきました。

ご主人が「純子さんもあまり記憶にないモノのようだけど押し入れから土蔵に展示できるお宝が出てきたから」と、器の入った三箱の新杉浦コレクションを届けてくれました。


 

 年頭あいさつ後の当話は、この器の紹介から始めようと先ず「備前平戸焼古代富士透画御飯茶碗」と書かれた木箱の蓋を開けると写真のように布に包まれた器の四隅には、筒状に巻かれた変色した新聞紙が、きっちり割れ防止に入っていました。


 「おいしいものは最後に」を口実に、骨董品級の器より俗な話題も散見できる古新聞にどうしても興味が行ってしまう自分を自覚できたのも杉浦コレクションのおかげですが、視力が衰えて新聞も読まなくなったと云う純子さんが「新聞は読まなくってもいろいろ使い道がありますから」と二紙購読を継続しているのもこのように新聞紙を活用してきた杉浦家の生活習慣からでしょう。

 

 そんな訳で、早速この古新聞を広げてみると大正10年7月8日付けの「時事新報」でした。「時事新報」は、東京日日新聞・報知新聞・国民新聞・東京朝日新聞と共に戦前は「東京五大新聞」と云われた全国紙で、大正中期までは「日本一の時事新報」とも呼ばれる購読数を誇っていたようです。

 

 この「東京5大新聞」は、東京日日新聞が毎日新聞、報知新聞が読売新聞とスポーツ報知、国民新聞が東京新聞、東京朝日新聞が朝日新聞と現在ある全国紙の前身になっていますが、唯一日本一と呼ばれた時事新報だけが消えてしまったようです。その辺の詳細については、時事新報 - Wikipediaをご参照ください。

全盛期の大正10年の「時事新報」。朝刊と夕刊があり、山梨版もあることから、甲府に支局があったことも分かります。