2015年1月22日木曜日

杉浦醫院四方山話―392『肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗-1』

  詩人の宗左近は、名著『日本美 縄文の系譜』(新潮選書)で、≪8世紀初頭に成立した「古事記」や「日本書紀」に富士山は全く無視されて登場しないのに、僅か40年たらずの759年頃に編まれた「万葉集」には、富士が霊峰として華々しく登場しているのはなぜか≫と、詩人の直感で疑問を持ったようです。

 

 富士山は天照大神が祀られている伊勢からも見ることのできる山で、大和朝廷がその存在を知らぬはずはなかっただろうし、ヤマトタケル(日本武尊)は大和から東方に蝦夷征伐に向かう際、富士山を左回りにめぐるコースを辿った記録があるのに富士山についてひと言も触れていないのはなぜか?

ところが「万葉集」のなかでは、たとえば山部赤人(やまべのあかひと)は富士山を指して「天と地が分かれたときから神々しい」とか「霊妙な神の山」「国の宝」とまで礼讃しているように、富士山が突如「日本の神」と讃えられるようになったのはなぜか?

宗左近は、想像力を駆使して次にように推理しました。


 それは、富士山は東国・蝦夷の信奉する山で、大和朝廷の山ではなかったからではないか!「万葉集」で急遽「富士山」を持ち上げたのは、朝廷の御用歌人が蝦夷の歓心をかうためにでっち上げた「老檜な文化工作」であった!と、結論付けたのでした。

 

 今年の山日新春文芸短歌の岡井隆選の入選一席は、神の山くぐりて里に噴きいでし水のよろこび鯉をやしなう ー中央市・萩原照子ーのように、山を御神体とし、巨木や岩にしめ縄を張って神聖視する山岳信仰は、綿々と現在まで引き継がれていますから、縄文人たちが、大噴火とともに突然出現した巨大で美しいこの富士山を、神の仕業と考えたのは当然でしょう。

 

 この並はずれて秀美な富士山は、太古の昔から日本に存在していたわけではなく、その歴史は意外に浅く、現在の三千メートルを超える高さと均等のとれた円錐形が完成したのは、今から五千年からせいぜい一万年だろうとされています。

五千年前とすると縄文時代真っ只中であり、一万年前としても、縄文時代の初頭ですから、宗左近の「日本美の源は縄文にあり」の推理は説得力もあります。


  当話は、新杉浦コレクションの「肥前平戸焼 古代富士透画御飯茶碗」が肝心なテーマですが、「古代富士」で引っかかってしまい、宗左近センセイに登場願った次第です。

 額面通り「古代富士」とすると透画の富士山は、写真のように円錐型に裾野が広がった縄文から現在にいたる富士の姿で、なぜ「古代」なのか?詩人ではありませんが釈然としません。

 

 確かに、縄文時代の富士山大噴火以前の富士山を「古代富士」とし、その麓に大和朝廷と並ぶ富士王朝があったと古代史ファンの間では論議され、富士山大噴火で溶岩に埋まって消滅したとされる富士王朝の上に現在の青木ヶ原樹海が形成されたことになっています。

 

 青木ヶ原樹海には「謎の石垣」もあることから、一層信憑性を帯びて語られてきましたが、富士王朝があったとすれば、その王都のあった場所は大樹海地帯ですから完全に未発掘で、しかも堆積した溶岩で金属探知機などの地中探査レーダーも機能しないことから、富士王朝が本当にあったのかどうかは、一切不明というのが考古学の常識のようです。

 

 この肥前・平戸焼の名工も、古代史ファンで富士王朝存在説の信奉者だったのだ!しかも彼が透してみた古代富士は、高さ広がりこそ現在より小さかったものの円錐型の優雅な姿であったのだ!と、詩人・宗左近に学び、浅学も推理してみたのですが・・・・