杉浦醫院四方山話―391『萬朝報(よろずちょうほう)』
丸い器を四角の箱に納めておくのに動いて割れないよう四隅に新聞紙を丸めて入れたのは、健造先生の奥様だったことが大正10年の新聞で推測されますが、前話の「時事新報」ともう一紙「萬朝報」と云う新聞紙も3枚使われていました。
この萬朝報は、「よろずちょうほう」と読むそうで東京5大新聞には入っていませんが全国紙で、名前の由来も「よろず重宝」とシャレから来ているそうですからスズキの軽自動車「あると便利」のアルトと重なり、日本人特有の命名知恵の一つでしょう。
萬朝報は、日刊新聞で明治25年(1892)に翻訳家であり作家の黒岩涙香(るいこう)が東京で創刊しました。黒岩自身が同紙を舞台に『鉄仮面』『巖窟王』『ああ無情』などの翻訳小説を発表したことが固定読者を獲得した一因だったそうですから、歌を詠み水墨画を描く文人でもあった健造先生が黒岩涙香編集の紙面に共感していたのかも知れません。
また、社会記事、政治記事の充実を図り、内村鑑三・幸徳秋水・堺利彦ら当時の社会主義者も加わって社会批判を展開し、日露開戦前には一時非戦論を主張したことでも知られていますが、その一方で、政治家や有名人の妾調査をしては三面で暴露するゴシップ記事も多く、萬朝報が現在の「三面記事」の語源となったと云われています。
まあ、現代では死語となりつつある「妾(めかけ)」ですが、萬朝報は権力者のスキャンダルから一般人の商店主や官僚の妾も暴露し、その内容も妾の実名や年齢にとどまらず妾の父親の実名、職業まで記載する徹底ぶりが大衆にも受けたのでしょう、社会思想社から「蓄妾実例」と云う文庫本になって出版されたようです。
個人情報とかプライバシーがうるさくない時代で「男の甲斐性」と云った言葉も日常語でしたから、スキャンダルも有名税的要素もあり、「俺の妾をなぜ載せない」という逆抗議もあったと云う、何とものどかな時代で、ちょっと羨ましくさえ感じてしまいます。