2013年9月25日水曜日

 杉浦醫院四方山話―275 『医業・医者ー1』

 「医師法」が制定されたのが、明治三九年五月二日ですから、それ以前の健造先生の時代では、医師になる為に大学の医学部で専門教育を受け、国家試験に合格するという現代のようなシステムはありませんでした。
健造先生が師事した小澤良済氏肖像画

 館内に掲示してある健造先生のプロフィールでも「1889年(明治22年)微典館(現・甲府一高)卒業後、西洋医学習得のため横浜市野毛の小沢良済医師に師事し、医業開業免許状を受ける」とありますから、西洋医学の開業医のもとで修業を積んで、その師から医業開業免許状が与えられたようです。     余談になりますが、右の肖像画は、杉浦醫院二階和室に健造先生の写真と一緒に飾られている小澤良済氏です。歌舞伎役者のような・・・はたまた吉行淳之介ばりの優男で、明治初頭の横浜野毛で開業医、さぞオモテになられたことでしょう。この小澤氏の長女たか子が健造先生の妻ですから、修業時代の資性温良高潔な健造先生が小澤良済氏に認められたということでしょう。
               ー閑話休題ー
 この医業開業免許状の交付条件も各都道府県で異なっていたそうですし、杉浦家のように代々医業を営んできた子息とそうでないケースでも違っていたようです。

 明治三九年制定の「医師法」で、医師となるには一定の資格を有し内務大臣の免許を受けなければならないとされ、初めて国で統一した資格による医師免許が規定され、幾多の改変を経て現代に至っているようです。

 「杉浦健造先生頌徳誌」にある家系紹介によると「杉浦家初代杉浦覚道は、宝暦年間(1750年~1764年)医業を創め、安永6年(1777年)没せられる」とあり、以後代々この地で医業を営む素封家として、「其の名古く四隣に聞こえ」たそうです。                                                        
  池波正太郎の「仕掛人・藤枝梅安」の主人公梅安は、表の顔は鍼灸医、裏の顔が仕掛人(殺し屋)という設定で人気を博しましたが、同じ江戸時代、代々医業を続けてきた杉浦家。では、江戸時代の医者とはどのようなものだったのか?数ある資料からまとめてみます。            

 藤枝梅安も裏の顔として殺し屋と云う「副業」を持っていましたが、江戸時代の医者の代表的な副業は「仲人」だったそうです。 それは、往診が基本の江戸時代ですから、医者はあちこちの家に赴き、家族構成や家庭の事情について詳しく知ることが出来たからでしょう。「仲人」もすっかり死語になりましたが、健造先生、三郎先生も数多くの仲人をしたそうですが、両先生は、これを副業にしていた訳ではなく、名士として所謂「頼まれ仲人」が重なったのでしょう。