「部落の費用や寺の費用で弔旗、ちょうちん棒、霊柩車などを備え、貧乏な家でも最低の葬儀が行われるように仕組まれている、<お取持ち>と云い隣組程度の人達が寄り、一人か二人の<帳場>責任者を定め、会計を司り、その家相応の葬儀計画を立てて取り運ぶ。」
「弔旗」「ちょうちん棒」なども消えゆく昨今ですから、残っているものを収集しておく必要を感じますが、確か河東中島区の棺桶が、教育委員会で保管してあった記憶がありますから、納屋の工事が終わったら、かつての葬式道具も展示しようと思います。
また、村八分にあっても葬式と火事の二分は、村落共同体で行っていたことが分かります。
「親戚へ死亡を知らせるには二人の<飛脚>をたてたものだが、今は簡素になり、一人で間に合わせ、時には電報で知らせる」
飛脚の任を甲州弁で「おとぼれーあかし」と云っていた記憶もあります。
「部落の人や知人は、死亡を知った夜<お仁義>に行き、葬式の時<見舞>に行って<香奠>の金を贈る。」
故深作欣二監督の「仁義なき戦い」の見過ぎでしょうか、「仁義」は真っ当な人には無縁だと思っていましたが、山梨では「お」を付けて「世間付き合い」「義理」と云ったイメージで使っているようで、「おとこしの仁義」とか「おんなしの仁義」と云った言葉も聞き覚えがあります。この「おとこし」「おんなし」も方言でしょうが、漢字表記は「男子」なのか「男衆」なのか「男師」なのかもしっかり知りたいところです。
文化人類学者嶋田義仁先生の甲州学序説によれば、北風吹きすさぶ甲州は「ヤクザで非情な風土」に尽きるそうですから、「親分・子分」関係やヤクザ用語が日常語として使われているのも違和感がないのでしょう。そう云えば、嶋田先生の名前も「仁義」をひっくり返した「義仁」ですから、無頼の徒がアフリカ学の先頭を走らせているのかも知れません。
「見舞人に酒食を出し、箱入れの饅頭又は砂糖などを香奠返しとして引いたが、今はあまり行われない。」
私が子どもの頃、箱に入った砂糖が積まれていましたが、現代は差し詰め「お茶」でしょうか。葬式の酒食で思い出すのが、何処で聞いたのか葬式と云えば必ず現れた「せとじゅうやん」の話です。
純子さんも「父や母の葬儀の時は来ませんでしたが、祖父の葬式に来たのを覚えています。いい声でお経を読んでくれましたが、あの人は頭のいい人だとみんなが話していたのも覚えています」「ごーけごーけごっとことん」と云いながらカエルのように跳ね歩くのが面白かったのか、男の子たちは、せとうじゅうやんの後をついて歩きましたね」「ごーけごーけごっとことんの後にも確か続く言葉があったのに、歳ですね思い出せません。省三さんなら覚えていると思いますよ」と。せとじゅうは、昭和20年代位まで葬式の酒食を求めて中巨摩一帯の葬式に風呂敷を背負って現れた名物オジサンだったようですが、石もて追われることなく「せとじゅうやん」と愛され、親しまれたからこそ、半世紀が過ぎても語り継がれ話題に上るのでしょう。