2012年10月17日水曜日

杉浦醫院四方山話―187 『書架は語る』

 前話と前々話で、「東郷平八郎の書」は、8代目健造先生が求め、「朱呂竹(棕櫚竹)」は9代目三郎先生が育てていたことをご紹介しました。
健造先生が収集した数多くの書画骨董は、東郷平八郎に限らず「一家を成した」著名人や歴史上の人物になっている方の物が多いのも特徴です。だからといって健造先生が、時の有名人や成功者、権力者を好んだ事大主義的な人間だったのかと言うとむしろ「自分も同等な大きい人間だ」と思う自大野郎的発想とは無縁な趣味人だったと私は感じています。
 例えば、先生の書庫には「東郷平八郎全集全3巻」が医学書や文学書と一緒に納まっています。健造先生は、この全集で東郷平八郎の生い立ちから元帥海軍大将となった過程を学び、その職に対する責任や覚悟を読み、尊敬の念が高じての自筆書の購入であって、時の大将の書だから求めた訳でないことを裏付けています。      
 また、自分でも歌を詠み、書画を書いた健造先生だからこそ、その道の先人や大家の書画にも興味と審眼を備え、鑑賞することの愉しみも心得ていたのでしょう。山梨西条村の開業医が、医学研究と合わせてこのような高度な文化的趣味にお金を投じていた事実も思えば愉快で、誇りとして伝承していく必要があるように思います
 三郎先生も医院長室の机に「入門 観音竹と棕櫚竹」を置き、「品種・栽培・繁殖」について、研究しながら育てていたようです。純子さんは、「父は、俺は朴念仁だからと云って、祖父のように書画には興味を示しませんでした。開業医でも学会には毎年参加して、よく植物をお土産に買って来ました。朱呂竹は、確か横浜で買ってきたようですし、北海道に行った時はスズ蘭を買ってきて、池の周りに植え、たくさん増えましたが、除草剤をまいた時全滅してしまいました」と、三郎先生の趣味は煙草と園芸だったようです。
 「一般教養」と云った言葉も死語になりつつありますが、杉浦家の書架は、複数の美術全集や文学全集から歴史書、教育書、クラッシック音楽のレコード等々まで、「朴念仁」故に幅広い文化を愉しんだ「一般教養の深さ」を物語っています。