前話で、奥野かるた店の方から「上方屋・中方屋・下方屋」があったことを教えていただき紹介しましたが、これは、百人一首やかるたに限らず、徳川家康が幕府を江戸に開いて、江戸が名実ともに京都と並ぶ日本文化の核となるのに100年かかった歴史の中で誕生した屋号でもあるようです。天皇が住む都を「上」として、京都から大阪一帯を上方と称し、江戸より上だと自任していた多くの老舗も元禄時代以降、続々江戸に進出しました。
畿内の上方に対して、江戸を下方、名古屋あたりを中方と呼んだ訳ではなく、大阪から江戸に出た上方屋が、中方屋、下方屋の名前で次々に支店を出し手広く商売をしたようですが、本店・上方屋にたいして、あくまで同列ではないと云ったところでしょうか。ちなみに、和菓子の虎屋や路線価日本一で有名な銀座・鳩居堂などすっかり東京のイメージですが、元は京都で、進出組です。
まあ、京都の貴族文化である上方文化に対し、江戸の文化は町人、庶民の文化でした。武士は、基本的に貴族にコンプレックスがありますが、江戸庶民はお上品ぶった上方文化に「てやんでえ!」の心意気で立ち向かい、江戸流に変形してきました。その一つが藤原定家が京都・小倉山の山荘で選んだ「小倉百人一首」です。歌がるたとして、通常、百人一首といえば小倉百人一首を指し、江戸でも大いに流行しましたが、上方で詠まれた「小倉百人一首」に対抗して、「女房百人一首」とか「烈女百人一首」「奇人百人一首」「祇園名妓百人一首」等々、いろんな百人一首を創作して遊んでいたそうです。江戸の「遊び心」は粋で、ひまが人間と文化を作ったという「江戸礼賛」もこの辺が根拠のようですが、私も京料理の懐石より江戸の握り寿司やそばにより親近感があるのも「出」が関係しているのでしょう。
この「百人一首」の歴史も日本が軍国主義に突き進むと「国家の非常時に、恋の歌を弄ぶとは何事ぞ!」で、「愛国百人一首」が生まれました。恋歌の多い小倉百人一首に代わる軍国的な愛国和歌を百首集めた「愛国百人一首」は、「君が代を思ふ心のひとすぢに吾が身ありともおもはざりけり 梅田雲浜」とか「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし日本魂 吉田松陰」といった類の歌で、台湾・満州・朝鮮の占領地はもとより、中国語・マレー語・英語に翻訳されたものまで出されたそうですから、国策とは、何をか言わんやです。
テレビゲーム全盛の現代ですが、歴史と伝統のある「かるたクイーン戦」では、若い方々の活躍が目立ちます。知らず知らずに名歌を暗唱できる小倉百人一首は、日本人の遊びとして、優雅で上等であることは間違いありません。