2015年2月26日木曜日
2015年2月18日水曜日
杉浦醫院四方山話―400 『節目の400話に「テロリストの悲しき心」』
若尾久氏の講演に続き、大塚先生のピアカウンセリングを紹介しましたが、お二人に共通する意識と姿勢は、弱い立場の人の「死」を看過できず、どうしたら「命」を守ることが出来るかと自らに問うた結果のように思います。若尾氏は子どもの、大塚氏は心を病んだ人の「命」をどうやって守っていくかをそれぞれの手法で実践しているのでしょう。
この「命」の問題は、軽々と話題には出来ない多面性を内包していますが、その問題に正面から向き合い本気になることを「ダサイ」「クライ」と退ける風潮があることを戒めた色川大吉氏のエッセイは大変インパクトがあり、私にはテロ事件の報に接する度に思い起こされますから、あらためて全文を読み直してみました。
10年以上前の2004年に、このままだと「日本も国際テロの標的に必ずなる」と、鋭く指摘した歴史家の考察は、昨日書いたかのように全く色褪せていないことに驚くと共に「命」についても特攻隊を指揮した体験を踏まえ「テロリスト」の悲しみにも眼差しが及ぶ深い洞察ですから、当ブログ400話の節目に全文を転載させていただき、「いのち」を重層的にとらえる一助にしたいと思います。
尚、色川先生は、大学退官後は山梨の八ヶ岳南麓に暮らし、執筆と講演活動を行っていますから、本町でも2003年(平成15年)に「タイムリー講座」の講師として、「現代史を読む連続講座・全7回」を担当いただきました。
また、色川先生は、大正14年7月生まれですから、大正15年3月生まれの純子さんとは同級生になります。
混乱の戦前、戦中、戦後の生き証人として、お二人の対談も是非実現したいと思っています。
色川大吉 : 「テロリストの悲しき心」
未来を生きる君へ (2004年6月13日朝日新聞統合版より)
石川啄木の詩にこうある。
「われ知るテロリストの悲しき心を」。
天皇暗殺をくわだてたとして処刑された12人への同情だが、テロの犠牲になった人びとの悲哀と絶望も限りなく深い。
腹に爆弾を巻きつけてエルサレムで自爆したパレスチナの女子高生の心も悲しい。
私は日米戦敗戦の年、特攻隊員を送りだす基地の島にいた。
命令を受け30人の部下から12人を選んだ。
一度出たら帰れない自爆攻撃だ。
みな17~18歳だった。
私も大学在中の20歳。
愛していた者ばかりだった。
悲しみと悔恨は今も消えない。
米軍はこの者たちを、神なる天皇のために自殺志願した狂った日本人と恐怖し、嘲(あざけ)った。
また特攻隊と、9・11のアルカイダによる自爆突入機を同一視した。
二つとも全くの誤解だ。
私たちは天皇のために死のうとしたのではない。
滅亡に瀕(ひん)した故郷と国民のためだった。
特攻はテロではない。
国と国の戦争行為で、相手は米軍に限られていた。
だが、そこまで追いつめられて若者が死ぬことはともに悲しい。
自爆攻撃の犠牲になって、その数倍の人たちが死ぬことはもっと痛ましい。
そんな事態を招いたのは、ヒラの兵士や庶民ではなく、上にいる者たちが作りだした憎しみの関係だ。
その不条理を解決する行為が政治ならば、その政治にダサイ、汚いからと注文もつけず、顔をそむけて、危険な方向に傾いてゆくこの国と世界を傍観していて良いだろうか。
21世紀はテロとの戦争の世紀だという。
米英日ロのような大国の政治家が口をそろえていう。
アフリカやアジアや南米の大多数の貧しい民衆から見たらどうだろう。
テロの温床を自分でこしらえておきながら、じぶんの影に怯(おび)える尊大なやつら、自業自得と映るだろう。
第2次世界大戦から半世紀余、日本は一人も殺さず殺されず、第九条を盾に平和な暮らしを維持してきた。
それがこの2、3年、急に変わりつつある。
黙っていたら、戦争をする国、国際テロの標的なる国に必ずなる。
戦前、戦中、戦後を生きてきた歴史家として私はそう思う。
この国にも自爆死の悲劇がおこる危険が迫っている。
止められるのは君たちだけだ。
「君、知るやテロリストの悲しき心を」
2015年2月17日火曜日
杉浦醫院四方山話―399 『大塚ゼミ・ピアカウンセリング』
過日、山梨県立大学の大塚ゼミのみなさんが来館されました。
女子学生から「2月10日の9時30分から11時30分で、地方病についての話しを聞きたい」旨の電話予約を受けました。大塚先生も女性ですから、「ここは、当時のままの医院を観ていただくのが売りですから、全館暖房等の設備はないので寒いですよ。せっかくなら、3月の後半ぐらいの方がいいと思いますよ」と対応すると「しっかり着込んでいきますからお願いします」と寒さなんか大丈夫と云う若者らしい返事ですから、お受けしました。
当日、下調べもしてきた3人の学生は、的確な質問と臨機応変な対話で、約1時間地方病の学習をして、DVDを観賞後、館内見学をして帰りました。
大塚先生とは、他の機会でご一緒して話したこともありましたが、ゼミ生3名とは初対面でしたから「どうかな」と思っていましたが、揃って「対話慣れ」していてスムーズな学習会になりました。 若い大塚先生と学生も和気あいあい楽しそうなフレンドリーな会話が「時代なのかなー」と思いましたが、これには訳がありました。
当日は、その辺のことをすっかり忘れていましたが、大塚先生は、県立大学赴任前は北海道や東京などでピアカウンセリングの専門家として、多くの実績を残されていましたから、大学でも「山梨県立大学山ちゃんサロン」と云う市民に開かれた学習機会を学生と共に毎月開催しています。
この「山ちゃんサロン」は、ピアカウンセリングの理念を基盤とした住民と教員と学生によって運営される自主的なサロンですから、参加者は対等平等で自由な交流が出来る学校や教室とは全く違った雰囲気の中で楽しく話し合える談話室と云った場です。
3人のゼミ生の「対話慣れ」は、このような活動に参加することで、学生の視野が広がるだけでなく、個人的には嫌な言葉ですが、「コミニュケーション能力の向上」に間違いなく繋がっていると感じました。
和歌山県で小学生が近所の青年に殺害されたニュース報道も核心に迫る中、安心して暮らせる街づくりには、「山ちゃんサロン」のような地域の人と人との繋がりを結ぶ場を住民同士の協働で、もっともっと多くの地域で創っていく必要性と重要性を考えさせられます。
それは、成熟したと言われる現代社会では「うつ病」「自殺」「虐待」「いじめ」など心の健康を抜きに安全・安心の社会は成り立たないわけで、監視カメラや見守り活動だけでは、孤立した或いは孤立させられた人間の苦しみや不安は増大しても癒えることはないのでしょう。
大塚ゼミが取り組む人と人のつながりの場を創設していくピアカウンセリングを基盤とする活動をもっともっと周知して、拡大していく必要性を学んだ2時間でした。
2015年2月16日月曜日
杉浦醫院四方山話―398 『いのちの町・昭和』
過日、町内のアピオに於いて、「命の授業と企業の社会貢献」と題した若尾久氏の講演会が開催されました。これは、昭和町商工会主催による「新春経済講演会」でもあり、町内商工会の方々も多数参加されていました。
若尾久氏については、当358話と359話でご紹介しましたように、子どもたちにいじめ問題を考えさせる意味でも全国の学校から若尾氏の「命の授業」要請が続いていることを朝日新聞が「花まる先生」として取り上げました。
それを機に、押原小学校をはじめ町内や県内の学校での「命の授業」も増えている中で、地元昭和町商工会が若尾氏を招へいして、この授業に取り組むまでの経緯から授業に臨む姿勢や覚悟、更に授業の概要と授業を通しての子どもたちの変化と若尾氏が子どもたちから学んだことまで、「命の授業」についての総論を伺える機会を設定したものでした。
イスラム国の「テロ」事件もあり、「命」は一層重い課題でもあり、聴きながら様々な「命」を逡巡しましたが、今回の講演は、限られた時間でも若尾久氏の「本気度」が、ひしひしと伝わる内容で、この本気な大人の魅力が、子どもたちの魂をゆさぶるのだとあらためて実感し、本気になることをテレたり小バカにする風潮もある現代への警鐘とも受け止めました。
今年で定年を迎えると云う若尾氏は、最後に、これまでは会社の社会貢献活動として取り組んできた「命の授業」を退職後は、地元昭和町を拠点にNPO活動として継続していく考えであることを語り、「昭和町を命を大切にする町として全国に発信し、いのちの町・昭和に貢献していきたい」と結びました。
多くの命を救うことを使命に研究と治療を重ねた杉浦健造・三郎父子の杉浦醫院に隣接する若尾家に育った久氏が「いのちの町・昭和」をライフワークにしていこうと云うのも縁でしょうが、名付け親の三郎先生が聞いたらさぞお喜びでしょうから、純子さに報告して「うれしい話」を分かち合いました。
2015年2月5日木曜日
杉浦醫院四方山話―397 『追悼 丸山太一氏』
1月31日(土)に木喰上人の研究者・丸山太一氏が、98歳でご逝去され、通夜、告別式が家族葬で行われました。新聞等での死亡通知も故人の意志で控えた、丸山氏の送別にふさわしい密葬でもありました。
純子さんは
「丸山さんとは祖父健造の時代から親戚以上のお付き合いでしたから、私たちが女学校に入る時の保証人も皆丸山さんにになっていただきました」
「丸山さんの所は皆さん頭がよくって、優秀でしたから父からは少しはあやかるようにとよく言われ、プレッシャーでしたよ」
「太一さんの妹のぎん子さんは、私が甲府高女に入った時、私を連れて先生方に紹介してくれたり、私を初めて映画館に連れて行ってくれました。その時観た≪オーケストラの少女≫は今も覚えています」
「父は、新しいモノ好きでしたから岡島にも良く行きましたが、帰りに三日町の丸山さんの所に寄るのが楽しみで、いつもお邪魔していたようです」等々、丸山家と杉浦家の交流をよく話してくれました。
病院棟に残っている医療機器には、「マルヤマ器械店」のステッカーが貼ってあるように丸山家は代々、医療機器販売が家業だったことから、杉浦家との交流が始まったようです。
太一氏は、甲府中学から山梨工専(現・山梨大学工学部)に進み、東芝に入ったエンジニアでしたが、家業を継ぐべく「私は、東芝を辞めさせられましたから、甲府に帰ってグレました」と、笑いながら話してくれました。
「銀座の仲間と写真クラブを作って、写真に凝った時もあり、木喰を始めてからは、家業は家内に任せっきりで、本当に苦労を掛けましたからグレっ放しの人生ですね」と、話も洒脱そのものでした。
「父は、杉浦醫院ホタル見会を毎年楽しみにしていました。その日は、若松町の芸者さんは全員杉浦さんの所に呼ばれたので空っぽだったそうですよ」
「母は、近くに醫院もたくさんあったのに杉浦先生の薬しか効かないと言って、健造先生に往診してもらいました。遠いですから人力車の車夫も二人で来ていただいたのを覚えています」
「私や妹たちの仲人も三郎先生にお願いしましたが、健一さんの結婚式に私も呼んでいただいたり、杉浦さんには親子二代に渡って大変お世話になったんです」等々、丸山家も杉浦家と親戚以上の付き合いだったことを懐かしそうに語ってくれたのを思い出します。
身銭で生涯、在野の一研究者として、木喰行道像と微笑仏について、ここまで究めた丸山太一氏の功績は、きちんと継承していく必要は云うまでもありませんが、晩年の丸山氏から直接ご教示ただいたり、ご寄贈いただいた数々の今となっては遺品も一層の活用を図っていくことを当面は考えていきたいと思います。
男のグレ方まで、ご指南いただいた私は「本当に果報者だったんだ」と・・・深く深く合掌です。
尚、丸山太一氏については、当ブログの「丸山太一氏」ラベルに数話ありますので、ご参照ください。
2015年1月29日木曜日
杉浦醫院四方山話―396 阿刀田高講演会 『言葉遊び』
講演後、図書館の依頼に応じて阿刀田氏が色紙に記した言葉は
「花は散るために咲く」でした。
「花は散るために咲く」は、太平洋戦争の特攻隊員の座右銘でもあった「散るために咲いてくれたか桜花 散るこそものの見事なりけり」や軍歌・同期の桜の「 咲いた花なら散るのは覚悟 見事散りましょ 国のため」と重なります。
現在、昭和町立図書館ロビーでは、この色紙を囲むように「阿刀田高フェアー」が開設されています。「花は散るために咲く」をステロタイプに額面通り受け取ると阿刀田氏は、軍国少年のままなのか?と・・・・
阿刀田氏は、日本ペンクラブ会長当時、毎日新聞紙上で次のように明言しています。
≪実は私たちの世代は戦時下の子ども時代、国家のために死ぬんだと教えられました。だから、やれ本土決戦だと竹やりを持つようになると、敵国が攻めてきたら死ぬ覚悟でした。
しかし、戦争が終わって日本国憲法が施行されたとき、戦争の放棄をうたい軍隊を持たないというのだから、なんと素晴らしい決心だろうと感動した覚えがあります。私は、人を殺すくらいならば、自分が死ぬ道を選びたい。特別な倫理ではなく、同じ倫理観の持ち主はきっといるはずです。
だから私は命がけで平和を守り、それでも攻撃を受けたら、丸腰で死ぬんだと覚悟を決めています。攻められたら死ぬんです、という覚悟が憲法9条の精神だと思います。
私たちはこうした憲法を保持し、培ってきた。だから、この65年間戦争しないでやってきたのです。≫と。
また、別のインタビューに答えても
≪ 私は10歳のときに長岡大空襲に遭い、強いと教えられた日本の軍隊が国を守ってくれないことを思い知らされました。広島、長崎の惨禍も防ぐことができなかった。だから軍隊を持てば国を守れると言われても、どこまで信頼したらいいのかと思ってしまう。
一方で、軍備を持つ国から攻め込まれたらどうするのか、と必ず問われます。私の答えは決まっています。そのときは死ぬんです、とはっきり申し上げております≫と。
「花は散るために咲く」の言葉も単に軍国用語として捨て去るのではなく、慣れ親しんだ言葉を阿刀田氏流のアイロニー、逆転の発想で、平和主義に徹するために「丸腰で攻められたら死ぬんです」の覚悟、信条を「花は散るために咲く」と形象する鋭さと柔らかさ!
青二才は「また見事に一本を取られたな~」と脱帽です。
超洒脱な阿刀田氏は、昭和町での「講演会」にも疾風のように現われて、きっちり記念色紙への揮毫まで計算して、日本語の言葉遊びの楽しさと文化を語り、疾風のように去って行きました。
余韻も味わえるよう仕立てられた「読書はおいしいぞ」講演会、「わかるかな~」と帰路の中央線車中でニンマリする阿刀田氏。
「いやあ~おいしすぎて!参った参った」デス。
2015年1月28日水曜日
杉浦醫院四方山話―395 阿刀田高講演会 『読書保険論』
阿刀田氏の読書遍歴は、父親の落語全集から野村胡堂の「銭形平次」を経て、芥川龍之介の作品へと移って行ったそうですが、振り返れば「物心ついた時から本が好きだった」ので「読書が素晴らしいのは宮沢りえが美しいのと同じで当たり前のこと」でもあったから、「どうしたら子どもが本を読むようになるか?」と云った質問が一番困るそうです。
今回の講演会の質疑応答では、その手の質問はありませんでしたが、「社会のIT化に伴う紙媒体の行く末」についての質問がありました。それに関連して、講演の中で阿刀田氏は、日本の中央紙と呼ばれている新聞の特徴について言及されました。
下の写真は、上から朝日・日経・毎日・読売の昨日の朝刊一面下段の広告欄です。
阿刀田氏は「地方紙」はともかく、中央紙の一面の下は現在も全て本の宣伝です。これは、出版社もここでPRすれば確実に売れるから出すわけで、新聞も衰退は避けられないでしょうが、一面の広告が毎日、本の広告であることは矢張り識字率の高い日本ならではの特徴ですから、絵本を含め本の持つ魅力や力は、本しかなかった時代と違う意味で残っていくだろう」と指摘されました。
この一面の文字広告は、三八広告(さんやつこうこく)と云うそうで、名前の由来は、3段分のスペースを8つに分けたことによりますが、最近は読者の高齢化に伴い?朝日・読売のように6つに分けて大きくしているケースも見受けられます。
この1枠の費用は、朝日新聞だと約150万円のようですから、出版社の費用対効果も案じられます。
阿刀田氏の指摘を受けて、町立図書館が備えている中央紙の同じ日の「三八広告」を撮影して気づいたのですが、ダブって広告している「本」は、朝日と読売にある「小説と推理」だけですから、出版社も自社本PRをどの新聞に載せるのが有効なのか?統計等を駆使して選択しているのでしょう。
阿刀田氏は「本は、読んでいけば必ず面白くなるように仕組まれているから、最初はちょっと労力がいるけど読み進めることが大事」とし「スポーツの練習と比べれば読書を習慣化するのは楽なもの」ですから「掛け金を支払うつもりで、若い時から読書の習慣をつけておけば、本当の保険は、配当が返ってこないことがあるけど、読書の掛け金は、老後確実に返ってくる」と「読書保険論」を提唱されました。
80歳とは思えない滑舌で生き生き話す阿刀田氏の「読書保険論」は、確かに説得力がありました。
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