杉浦醫院四方山話―397 『追悼 丸山太一氏』
1月31日(土)に木喰上人の研究者・丸山太一氏が、98歳でご逝去され、通夜、告別式が家族葬で行われました。新聞等での死亡通知も故人の意志で控えた、丸山氏の送別にふさわしい密葬でもありました。
純子さんは
「丸山さんとは祖父健造の時代から親戚以上のお付き合いでしたから、私たちが女学校に入る時の保証人も皆丸山さんにになっていただきました」
「丸山さんの所は皆さん頭がよくって、優秀でしたから父からは少しはあやかるようにとよく言われ、プレッシャーでしたよ」
「太一さんの妹のぎん子さんは、私が甲府高女に入った時、私を連れて先生方に紹介してくれたり、私を初めて映画館に連れて行ってくれました。その時観た≪オーケストラの少女≫は今も覚えています」
「父は、新しいモノ好きでしたから岡島にも良く行きましたが、帰りに三日町の丸山さんの所に寄るのが楽しみで、いつもお邪魔していたようです」等々、丸山家と杉浦家の交流をよく話してくれました。
病院棟に残っている医療機器には、「マルヤマ器械店」のステッカーが貼ってあるように丸山家は代々、医療機器販売が家業だったことから、杉浦家との交流が始まったようです。
太一氏は、甲府中学から山梨工専(現・山梨大学工学部)に進み、東芝に入ったエンジニアでしたが、家業を継ぐべく「私は、東芝を辞めさせられましたから、甲府に帰ってグレました」と、笑いながら話してくれました。
「銀座の仲間と写真クラブを作って、写真に凝った時もあり、木喰を始めてからは、家業は家内に任せっきりで、本当に苦労を掛けましたからグレっ放しの人生ですね」と、話も洒脱そのものでした。
「父は、杉浦醫院ホタル見会を毎年楽しみにしていました。その日は、若松町の芸者さんは全員杉浦さんの所に呼ばれたので空っぽだったそうですよ」
「母は、近くに醫院もたくさんあったのに杉浦先生の薬しか効かないと言って、健造先生に往診してもらいました。遠いですから人力車の車夫も二人で来ていただいたのを覚えています」
「私や妹たちの仲人も三郎先生にお願いしましたが、健一さんの結婚式に私も呼んでいただいたり、杉浦さんには親子二代に渡って大変お世話になったんです」等々、丸山家も杉浦家と親戚以上の付き合いだったことを懐かしそうに語ってくれたのを思い出します。
身銭で生涯、在野の一研究者として、木喰行道像と微笑仏について、ここまで究めた丸山太一氏の功績は、きちんと継承していく必要は云うまでもありませんが、晩年の丸山氏から直接ご教示ただいたり、ご寄贈いただいた数々の今となっては遺品も一層の活用を図っていくことを当面は考えていきたいと思います。
男のグレ方まで、ご指南いただいた私は「本当に果報者だったんだ」と・・・深く深く合掌です。
尚、丸山太一氏については、当ブログの「丸山太一氏」ラベルに数話ありますので、ご参照ください。