杉浦醫院四方山話―345『元気の秘訣! 何でも見てやろう』
作家の小田実(おだ・まこと)が亡くなってもう何年になるのでしょう。代表作「何でも見てやろう」を愛読し、その気になってヨーロッパへアフリカへアメリカへ・・・・と休学して出ていった同級生もいました。N君は、そのままアメリカから帰ってきませんし、S君はアフリカ学の第一人者として現在も頻繁に往来しています。一番長く放浪してきたS君は、すっかり甲州弁に戻って、居酒屋のオヤジとして、たまり場を提供しながら傾けるウンチクに「何でも見てきた」片鱗が伺える程度でしょうか。
個人的には、中核派(すっかり死語ですねー)が小田実の講演を売りに杉並公会堂で開いた集会に聴きに行った程度ですが、小田実の北朝鮮本は引っ張り出しては楽しんでいますから、人が見てきた話を読んだり聞いたりで追体験するという無精さは、若い時から変わりません。
昨日、富士吉田の老人クラブの方々が来館されました。事前に事務局の方からはDVDの観賞は無しでと連絡を受けていましたが、昼食休みに良かったらどうぞと放映すると全員が画面に向かい食い入るように見入って、最後には拍手まで起こりました。
老人クラブの皆さんと云うことで、母家では、88歳になる三郎先生の長女純子さんがお一人で生活していることを話すと「俺が今年89で同級だから、後でその人に会っていく」と云う男性や「こちらは91歳です」と云うご婦人まで、皆さんかなりのご高齢であることが分かりましたが、一人として「2階は無理です」と云う方もなく、急な階段を上り下りして、館内くまなく見て回り、「月光寺の角田醫院もこんな感じでよく似ています」と教えてくれました。
「この病院は昭和4年に建てたと説明してくれたけど俺の予想では5寸柱で、檜主体だから当時の金で5千円前後かかっていると思うな」と自信に満ちた質問なのか確認なのか・・・さっそく純子さんから預かった「新館新築工事」書類で調べると合計4637円79銭とあり、「俺の予想どおり」でした。
更に、裏の土蔵や納屋も「もう二度と来れないと思うから」と、時間をかけて観て行かれました。特に土蔵の二階への階段は、梯子状の階段ですから無理をしない方がと思いましたが、「手をついて上がれば大丈夫さ」と皆さん2階まで上がり「いいモノを見せてもらった。楽しみに来たんだからみんな見せてもらわないとね」と「何でも見てやろう」の精神そのものです。この好奇心や行動力が元気の源なんだと実感させられました。
最後に集合写真を撮影して帰路につきましたが、帰りがけ白髪のご婦人から声を掛けられました。「私は佃島の生まれで、疎開で筑波に行き、燃料にする松の伐採作業をしました。その後、秋田に疎開して、戦争が終わって父の実家のあった御坂に寄せてもらい、吉田に嫁に来ました。戦争は際限なく広がることを身を持って体験しましたから、九条は譲れません。あなたはどうお考えですか?」と。
静かな気品ある語り口で「あなたはどうお考えですか?」としっかり問う大先輩にまさか「難しい問題ですね」とお茶を濁す無礼もないでしょうから「アベ君同様私も戦争を知らない世代ですが、アホノミクスの終着駅が戦争のできる国ですから、しっかり見ていかなければと思っています」と応えると「同じ思いの方でよかったです」と一礼され、日本女性の美しい歳の重ね方についても教えられました。
事務室に戻りながら、ふと晩年の小田実がテレビで語っていた話しを思い出しました。
「私は護憲の論理を貫いてきたので護憲の市民運集会にもよく呼ばれましたが、舞台上の看板に<憲法は今でも旬>というフレーズが定番になっていたんで、こんな認識ではダメで、<憲法は今こそ旬>なのだと怒った」と云った内容の話でした・・・が、<憲法は今こそ旬>死しても生きる小田実の洞察力です。
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しっかり見る人は、体もオツムも元気なんだなー |