杉浦醫院四方山話―331 『参河後風土記(みかわごふどき)』
杉浦家の母屋には「はて?これは」と云う古いモノやめずらしいモノが押し入れなどに保管されています。今回ご紹介する「後風土記」も紙に包まれて、純子さんの字で「後風土記」と記され、しっかり保管してありました。
ここ「杉浦醫院」は、接頭語として「昭和町風土伝承館」が付いていますから、「後風土記」が所蔵されていたのも何かの縁でしょう。 「後風土記」は、江戸時代編まれた『三河後風土記』ですが、この時代の本は、元本または底本を写した写本が中心ですから、この和綴じの「後風土記」も写本かと思います。
写本は、人間が書き写す訳ですから、その写した人の誤字、脱字や文章が前後してしまったりするのは普通で、写し手の癖によって地名や人名に通常は使われない漢字を当てたり、その人独自の当て字が使われることもあります。この「三河後風土記」でも「三川」とか「参河」と記してある写本もあるようで、杉浦家に残っていた後風土記は、写真のように「参河」で統一された全10巻です。
一巻目の最初が八幡太郎義家の挿絵と家系図で始まりますから、全45巻と云われた「三河後風土記」の武田氏が関係する部分の10巻かも知れませんが、不勉強で古文書判読が出来ない以上、然るべき方に依頼して解明する必要を痛感します。
浅学の記憶では、武田家に代々伝わる貴重な家宝は、「み旗」と呼ばれた八幡太郎義家の旗と「楯無し」と呼ばれた鎧で、これも義家の父親・頼義から新羅三郎義光に与えられたもので、武田家はこの二つを神格化して崇拝し、武田家の時の当主が、「み旗、楯無しも照覧あれ。」と言うと、議論はやめて、当主の決断に従うという程、八幡太郎義家あっての武田家だったと云うような話を郷土史家から聞いた記憶による憶測ですから、アテにはなりません。
「アンと花子」の明治時代でも本は庶民には高嶺の花でしたから、江戸時代に本を買えるような家は並みの家でなかったわけで、江戸時代初期から、この地で医業を営んできた杉浦家には、読み書きも含めて本を楽しめる才を持った人が「三河後風土記」で歴史を学び楽しみ、代々読み継がれ、現在まで大事に保管されてきた全10巻であることは確かでしょう。